「技」の向こう側 (と、こちら側)

「一つはっきりと言えるのは、空を飛ぶことの基本は誰でも身につけることができる。しかし、勘は一様には備わっていない。これは天性のものですね。飛行機の操縦は、年数や飛行時間じゃないんです」これを言えることの凄さが、果たしてどれだけ伝わるだろうか。


 技や術を競う場に立ったことのある人なら似たような経験を思い出すかも知れない。歯を食いしばって何年も練習を重ねてやっと届いた指先を、後から来た若いやつが平然と乗り越えてゆく感覚を。「あ、ダメだ。俺は一生かけてもこいつに追いつけない」という絶望を。


 世の中の技や術は、必ずしも競って勝つことが目的ではない。セスナを借りて飛ばすのに0.1秒を削る最適旋回技術は必要ない。でも戦闘機乗りという職業はまさに「競って勝つこと」が目的であり、しかも負けた者は高い確率で死ぬのだ。


 異なる場所、異なる気象、異なる状況、異なる機体で飛行時間を積めば積むほど経験は重なって引き出しが増える。150時間のヒヨコは悪天候と無線混雑と機体の不調が重なればパニックに陥って頭が真っ白になるが、1500時間も持っていれば優先順位を付けて順番に対処してゆける。


 でも、それはどれだけ重ねても「空を飛ぶことの基本」の範疇にある。戦闘機乗りはいくら飛行時間を重ねても超えることのできない、選ばれた者にしか見えない世界を見ているらしい。その資格はトム・ウルフが「The Right Stuff」と呼んだものなのだろう。


 僕にもその世界は見えない。ただ、自分には見えないものを語っているらしい、ということはわかる。飛行機も機械工学と物理学の原理に従う乗り物である以上、その挙動を分解して理屈として理解することはできるけれど、それはたぶん「選ばれた者の見ている世界」ではない。

 競馬場で、馬の背中の上で日々身体を張って生きて仕事をしているノリヤクがたの、ソノ言葉や立ち居振る舞いを目の当たりにするたびに、いつも必ず思い知らされてきた大事なことと、おそらくは同じ。「選ばれた者の見ている世界」の向こう側、と、こちら側。

 いや、ノリヤクだけではない、馬たちのいちばん近くで毎日、文字通り寄り添いながら暮している厩務員や調教師などの「うまやもん」たちの誰にも通じる〈リアル〉の手ざわり。

 「向こう側」もあれば、でも「こちら側」も、ある。そのどちらの側にも、橋をかけることのできることば、そのための時間や手間ひまをどれだけかけてそのようなことばにたどりつくことができるのか、それがひとつの信心と共にこの身に宿ってゆけるようになることを、きっとずっと希ってきたのだと思う。