https://twitter.com/pc_unko/status/1224489515940630528 *1
家で古い映画見る時は「(演出等込みで)物語」だけ見てる気がするけど、映画館で古い映画見る時は「一つの世界」というか「エネルギーの塊」みたいなモノをぶつけられてる感じになる。その「塊」をぶつけられて「うわぁ!」と圧倒されるのが良くて、正直「粗筋が…演出が…」みたいなのは二の次になる
私はわかんないけど、向こうの人が見れば、「あ、1940年代っぽい顔」とかわかるんだろうかね。
— 印度洋一郎 Yoichiro Indo (@ven12665) 2020年2月4日
顔つきはやはり時代によって違いが出る気がしますね。ただ、演技のやり方も、物語の語り口も今と昔では全然違うんで、多分「昔の俳優がそのまま今の映画出ても」その他の点はあまり変らない気もします。「893愚連隊」の時の松方弘樹が今の暴力映画に出ても、多分そこまで良くない…
俺は昔の俳優さんがやってることは、要は「翻訳調の(現実では)不自然な台詞を自然に言う」という特殊な技術の見せ方と思うんですよ。台詞回しに関しては。その「翻訳調」を必要とする映画(或いはソレを可能とする世界)が主流でなくなった時点で、演技力云々と関係なく「別物」にはなるとは思います
映画や演劇での「リアリズム」の議論はそれはそれでこってりてんこもりに議論や能書きの推移がこれまで蓄積されてるし、またそれらの背後には「ブンガク」がらみの文字介した表現の「リアリズム」に関する七転八倒の経緯がどん、と控えておる。いずれにせよ、本邦少なくとも近代このかたの〈リアル〉をめぐる実体としての変遷とそれに見合った能書きの推移とは、共においそれと認識把握できないくらいの茫漠とした広がりで、日本語を母語とする環境にがっちり巣喰っている。
で、とりあえずここは映画の話なのだが、ごくごく素朴にこういう「古い映画」を〈いま・ここ〉の感覚介して観る時の〈リアル〉が、はたしてどういうからくりによって現前化しているのか、といった方向での疑問は割と誰しも抱くことだろう。あと、テレビやモニタ介して自宅で「日常」の中で見る映画と、映画館というセッティングで観る映画の、そこからもたらされる〈リアル〉の質の違いというのも言及されてはいるが、それはひとまず副次的なこととして、演じている役者の演技の質や「顔つき」(と表現されている何ものか)などの問題について。
ごくすんなり「演技」の技術、そのありかたなどにだけ問いを収斂させてゆくならば、芝居など舞台表現も含めての「演技」のありかたが変わってきたということで片づけられてもいいようなものだろうが、ただそれは同時にそのような「演技」を「観る」こちら側の問題、つまりここでもまたそれらを「読む」リテラシーとの関係に宿る〈リアル〉に関わるという風に問題を設定するならば、話はまたややこしいことになる。
*1:例によって過去ツイがたどれないが、別途キャッシュから復元……