思った(と思った)ことを全部言う、カタチにすること、と、それをweb介してそこら中にすぐバラまくこと、の間にはほんとは違いなりズレなりがあったはず、なんだがな……(´-ω-`)
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2020年8月17日
不特定多数の眼に触れさせることが常に前提にならざるを得なくなったことで、ある意味以前のクロウト感覚、自意識がうっかりカタギじゃなくなってゆくことの危険に誰もが平等にさらされるような環境になってしまっているらしいこと。
鏡みたいな不特定多数≒「みんな」の眼が常にアタッチメントみたいにくっついてしまった自意識は、思ったこと、もまたあらかじめそれら「みんな」に向けて思ったつもりになったこと、を先廻りして自分の思ったことと思うようになるらしく。
だから、Twitter が「つぶやき」ってのは、ほんとは日本語としての訳し方が間違っていたようにおも。
世の乱れは「公」に「私」が侵食しているせいと言われがちだけれど、自分は逆に「私」を「公のようなもの」が侵食しているように思う。 https://t.co/5zQsVaeuaH
— 🎏Taku🎏あっというまに次の別マガ (@0245Amigo) 2020年8月18日
ネットに限ったことでも、初めて知恵袋を読んだ時とか、2chスレをROMってる時とか、iPhone初めて触った時とか、不特定多数の「みんな」にチューニングされてゆくような感じがする、ああいう事態がそこかしこに、である。もはやいちいち意識しないくらいに。
たとえば、そう、最近の若者や子供が、インタビューで「ちゃんと答えられる」事を気味が悪いと思わないのだろうか。自分は、かなり気味が悪いし、それに不健康で風通しの悪い内面の気配を否応なくそこに察知してしまうのだが。