クロウトの結界

 だからこそ、かつていわゆる「クロウト」の結界が張られてたわけで、それによってシロウト≒世間一般の視線や意識を制御して、中のブツ(芸人なり何なり)の自意識輪郭の安定を保つ知恵でもあったはずで、な。

 シロウトがシロウトのままうっかり「有名」になること、ってのがどれだけアブナいことなのか、シロウトの世間の側にも、稼業のクロウトの側にも、というあたりの機微が「そういうもの」として共有され/できなくなっていった過程。

 そういうクロウトの結界の張られた側からこちら側に姿を見せる「この世のものでない」存在は「尊い」「おがんでしまう」対象というのが素直な反応なわけで。うっかり同じ世間で対面したりするのがどれだけおっかないことか、といった感覚は昨今「推しが尊すぎてツラい」的な表現にかろうじて、と。

 クロウトの結界の向こう側、それこそ「楽屋裏」を大した覚悟もなしにのぞきたがる心性もまた、世間一般その他大勢シロウト衆のものでもあるんだけれども、そういう心性も含めてうまく制御していなしてやるだけの器量や「芸」「手管」もまたクロウトの側に確かに宿っていなければならなかったわけで。

 それら「楽屋裏」のゴシップや噂話の類を嗅ぎ回るメディアも大衆社会黎明期からさらに加速されて異なる様相を呈するようになってきたけれども、その卑しさもまた結界のギリギリを往還してみせる賤業ならではの属性である、というあたりの自覚もかつての「羽織ゴロ」にはあったはずで、な。

 本邦ポンニチ母語でのカタカナ表記の「フィールドワーク」の類が本当にキモチ悪いのはそういう賤しさについての自覚がきれいになくなる呪文と化しているあたりがおそらく大きな理由なんだとずっと思うとる。

 「取材」「調査」「リサーチ」の類も同じこと、しょせん結界の向こう側に踏み込もうとすることに変わりはないわけで、そのことにどれだけ鋭敏になれるかというのはその個々の資質や性格、業の深さみたいなものと関わる変数だったりする部分はどうしても否めないとおも。良くも悪くも。