「教育」の無力

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 塾で仕事してた時、数年分の学習を蔑ろにしていたお子さんを見たことがある。同学年から遥かに遅れた学習にプレッシャーとコンプレックスと焦り。苦痛に耐えきれず休会と再開を繰り返していた。義務教育は思春期までに自分を客観的に見て先に進むために必要と思う。大切な事を見失わない為にも。


 親御さんの教育方針で将来の目標を掲げ学校に行かないお子さんを複数みたが、どの家庭もお子さんも地域と軋轢が出来、ますます家庭の中で目標に邁進して行った。目標目指したお子さん達は中学卒業までほぼ登校せず、目指す結果もその時は出せぬまま、気が付けば家族は家を手放し引越して居なくなってた。


 格闘家目指して冬も裸足で登校した子、ボクシングでプロ目指し学校行かずトレーニングしていた子達。皆んな思春期迎える頃に家族と一緒に何処かに人知れず引越して家は空き家になった。夢を語っていたあの親子は少しでも叶って暮らせているのかふと考える。


 手放したものと引き換えに得たものが本当に大切かは本人次第だし先の結果は分からない。けれど教育はどんな形であれ受ける方法見つけ、それぞれに合った形で受けて欲しい。周りと違う選択している子供も受けられる環境であって欲しいと思います。

 大学でも初年次教育の段階では、かなりの程度高校までの学力の不足を補填してゆくような、いわゆるリメディアル教育的な要素が中心にならざるを得なくなってすでに久しい。個人差はもちろんあるのだけれども、最近の傾向としては少し前までよくあったような何らかの障害が背後にあるような類の学力不足よりも、そもそもそのような「学ぶ」ための習慣づけができていないといった事例が眼につくようになってきている印象ではある。

 習慣づけだから、学校の教室だけでどうこうできるような問題ではない。まして、中学高校までの段階でまともに対処してこなかったものを、大学で全部チャラにできようはずもない。全て時間の積み重ねの結果、まさに「どうしてこうなるまでほっといたんだ」なのだ。

 全部がそうかどうかはわからないけれども、少なくとも半径身の丈の見聞の限りでは、親ないしは保護者が問題を認識していないorしたがらない、というのが多かった。同時に、その親がそれなりに裕福であることも。ミもフタもない言い方をすれば、カネがあるから子どもの抱えた問題を直視しないまま勝手に夢見ていられるわけで、子どもこそ本当はいい迷惑であるはずなのだ。

 しかし、当のその子どももその「カネがある」環境に甘んじている。少なくとも疑問を抱いたり、このままではいけない、何とかしなければ、的な方向での焦燥感なども持たない。いや、持たなくはないのだろうが、ここでもまたそれ以上真剣にそれらと対峙することはない。なぜなら、ああ、ここでもまた「カネがある」から、当面特に困ることはないから、そのまんまで日々の暮らしは続いてゆくから、なのだ。

 「カネがある」ことが現実の〈いま・ここ〉と対峙することを回避してくれる防壁になる。だから、大学までも流し込まれるままにやってくるし、どうかするとそのまままた別の「学校」へと居場所を変えてゆく。当人の意志とかでなくとも、親やまわりのオトナたちの思惑によって。それがいかに残酷な結果をいつかもたらすことになるとしても、おそらくそれまで誰もが眼を閉じたままなのだと思う。

 ひとりでエサを拾って喰ってゆけるように仕立ててゆくこと――それが親や、先に生まれたオトナたちの後生に対する責任だとしたら、「教育」もまたその脈絡にあるはずだ。なのに、その目的をいまどきの「教育」は自ら見ないようにして、課題としても正面から当事者として取り組むようにならなくなっているらしい。 

*1:TLでも教育関係、それもいわゆる学校以外の塾やそれに類する場所で仕事しとらすとおぼしき人がたのつぶやきには、具体的である分、切実なものが少なくない。学校の教師教員がたになるとそれがどこか型通りの平板な「批評」「批判」ないしは悪い意味での「グチ」「ぼやき」になっている場合が増えてくる印象。このへんも何か理由があるのだろうとは思いつつ。