テレビとワイドショーのリテラシー・メモ

 忌事帰省の際、「三世代七人暮らし、朝の家族会話はテレビのワイドショーに掻き消される。読書はあまりせずネットもさほど使わない弟」と、「夫婦二人暮らし+猫、朝にワイドショーを見る習慣はなく、基本ツイ廃、本から資料から仕事から文字テキストを膨大に読む兄」の間の会話齟齬が凄くてなw


 どれがどうってことはないんだろうけど、「朝のワイドショー垂れ流し習慣」は、「皆も同じ情報を見て知っている。皆と自分の所有情報の足並みを揃える(「皆」と常識を共有する)ための習慣なんだろうと思う反面、これが「ワイドショーを見ていない他人と情報を共有する」のを難しくさせていた。


 「テレビで言ってたんだけど」と前フリする親のほうがまだマシで、「テレビで言っていたことは、誰でも知っている常識だから、何を前提に(根拠に)そう言うのか」についてワイドショー慣れしすぎてるとそこを言わない。「誰でも知ってるワイドショーで導き出された結論だけを言う」とかある。


 これ、知識も語彙もワイドショー頼りになるから、そこに出てこない語彙、知識は使われず、自力で掘り下げられることもない。
「ちょっと待て、それを言ったのは具体的に誰だ。その発言の裏付けになるソースはなんだ」を掘り下げないで結論の共有だけを強いる、ってなる。


 ツイ廃の全てがそうとは限らないけど、所謂ツイ廃民は「自分の知識の外から【常識】を持ち込まれたとき、必ずソースを確認する。何なら元の発言者が引用した大元の書籍、論文、動画、原出典話者まで当たり、発現前後を対照して意図まで漁る。結論だけに乗っからない。


 ツイ廃民なら掘り下げて見つけられる「ワイドショーの右肩に表示されてるテロップが事実と異なる」ということを、ワイドショー民は多忙(というか、結論の共有だけでそれ以上を掘り下げない)なので発見できない。


 ここらへん、知識獲得の習慣の差、日常的に蓄積する語彙の差、それより何より「情報を一方向で受け取るワイドショー民」と「受け取った情報に解釈を当てて自身も発信するツイ廃民」の違い(あえて差とは言わない)からくる気もする。


 恐らく、ワイドショー民よりツイ廃民のほうが、「不特定多数への発信機会」は多い。手慣れた者から不慣れな者まで含めて、「不特定多数に自分の意見を提示する」機会が多ければ、「自分への名指しの反論」を読む機会も同時に多くなるわけで、ワイドショー民よりは語彙拡大機会が増えるのではないか。
 

 ワイドショー民は
「ワイドショーから【共通情報】【常識】を受け取るが、自身の言葉としては発信しない」
「ワイドショーを見ている前提(常識共有者)の人との会話に、追加説明を必要としない(から、当人の会話は説明不足がちになる)」
とか起きてくるのではないか。


 ワイドショーに限らんけどバラエティとかでも視聴者はテレビにツッコミ入れることがあるけど、ツッコミのタイミングと意図が同じ番組を観ている家族と常に共有されてるとは限らない。テレビにテロップが出た場合、ツッコミの内容とタイミングは共有できるかもしれんけど、見てない家族は置き去りになる


 テレビが教えてくれる以上の語彙は増えず、テレビを視ている前提の「常識」は視てない人には共有されないから、「テレビを視ている人同士でしか会話がスムーズに成り立たない」とか起きてくる。まあこれは、テレビを視ずにTL上の話題だけを常識とするツイ廃民にも似たようなことは起きてる気がする。