「出羽守」のおキモチ分析

 で、出羽守系の人については、

「成功者である自分を褒めてくれて、居住地のコミュニティでも受け入れられている」ならば、出身国の母語コミュニティに、母語で参加する必然はないんじゃないか?

という指摘というか素朴な問いがある。


 誰でもそうだとは思うんだけど、人は自分が楽しいときや充実しているときは、楽しい話題をするし、楽しさを共有しようとする。ポジティブな話題を喜び、ネガティブな話題を忌避するか、憐れむ。人が人を憐れみ侮蔑を伴わずに手をさしのべようとするのは、当人が満たされてるか救われてる時だけ。


 逆に、「救われてない人」「満たされてない人」「幸福ではない人」「ネガティブな人」は、こう考える。

「なぜ自分だけが?」
「自分と同様にネガティブでない奴等が憎い」
「自分と同じように同じだけ不幸になるべきだ」

 同時に、「自分はそんなに不幸じゃないはずだ。あいつらよりはマシなはずだ。あいつらは自分よりもさらに不幸なはずだし、そうでなければならない」とも考える。


 だって、「自分は優れているから日本を飛び出し、異国の地で頑張っていて、評価され羨まれるべき」な訳だから。


 そうすると、根を下ろしたはずの居住地のコミュニティではなく、背中を向けて飛び出して、おまえらなんかとワタシは違うのよ、と砂を掛けたはずの母国語コミュニティに呪いを掛けざるを得なくなる。


 「海外在住」を自称しながら、やたらと母国語コミュニティで「自己の優位性」を振りかざしながら、「自分を褒めそやさない誰か、母国から出ない誰かを、自分より下に見て侮蔑する」っちう行動に出てしまう。


 これ、昔は「そういう性格の個人がいて、その個人の個性、或いは個人的な特質」なのかなと思っていたんだけど、長く「完全に見知らぬ他人と、その人の過去の言動」を纏まって読む機会を得てきた結果、「個人の特質の問題」ではない気がしてきてる。


 既に「出羽守」というレッテルが、特定の行動様式の人々を指すスラングとして機能し始めて久しい訳で、ってなこと考えると「海外に馴染めなかったけど、帰ることもままならない日本人」が、嵌まり込むパターンとしてあるのかもなあ、って。


 あえて「日本人」としたけど、同様のメンタリティと行動様式になる外国人だっているのかもね。「日本で暮らしながらも、母国の誰かに母国語で母国の悪口を腐す」みたいなの。


 出羽守というフレーズとは別の、しかし似たニュアンスの言葉で呼ばれたりしてるのかもしれない。


 日本に居場所があって日本のコミュニティに馴染み、そのコミュニティに充足感があるのであれば、そっちが主体になるだろうし、「自分で自発的に選んで出てきて根を下ろしてる場所」で、自分の居場所に来ない母国人を腐して自分を持ち上げるとかするだろうかな、と。


 まあそんな感じで、出羽守さんを一言で纏めると「寂しがり屋」。
「俺の凄さを誰も分かってくれない」と拗ねるところは、若干中二病ライクw
 特に特別、特定の誰かを腐しているのではなく、「よく見かけるテンプレな出羽守さんは、なぜ出羽守なのか?」を何となく考えたよー、という話なので、


「奴はワタシの悪口を言っている!」とか、
「ワタシは寂しくない」とか、
「ワタシは孤立してないし、依存してない!」とか、


いちいち僕に宣言しに来たりとかはしないでほしい。
特定の誰かのことは言ってないデスヨー。