おたくと学校的空間・メモ

「いま」の日本の惨状は、バブル期から始まったマウンティングと忖度の横行の果てなのだ。

 当時のおたく第一世代あたりの〈リアル〉という意味では、戦後民主主義的な意味での「平等」と「個性」の相克みたいな状況が日常化していた記憶。それが「学校」空間において濃縮された形で日常化されていたような。お互い「個人」として「平等」である、ということと、でも同時に「個性」を発揮すべき/しなければならない≒自分以外の他人との「違い」を求めるべき/求めねばならない、ということが、常にせめぎあっている状態。

 これが「勉強」を介した局面で先鋭的になって、いわゆる偏差値教育的「平等」下の競争が受容されていたし、特にそれがある種ミッションと化した層≒都市部中間層的価値観を内面化した人がたにとってはなおのこと、でその煮詰まった表現があの「共通一次」から「センター試験」として理解された、と。

 「消費者」としての〈おんな・こども〉の前景化の過程はそれよりずっと前、かつずっと大きな流れとして都市化・大衆社会化と寄り添いながら進行していたと思うが、戦後の過程でそれがよりブーストされていった状況が下地としてあって、それら「平等」と「個性」の相克が現出されていったように思う。