上野昂志の「うた」の位相・雑感

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 上野昂志という名前ももう忘れられかかっているのだろう。だが、いわゆる大衆文化についてこれまで人文的な批評をものしていた一群の人たちの中でも、いま改めて読み直してみて、まだ何か引き取っておくべきものが豊かにあるというのは、かなり稀有な例になるのだと思っている。このあたりのその稀有なありようについて、機会あるごとに言葉にしておきながら、自分の仕事のよすがにしておくことは、別にこの場合だけでなく大事なことだ。

 おそらく「アカシヤの雨が止む時」と安保闘争を結びつける意識が現われてきたのは、何年かたって、それをうたうようになってからのことであろう。つまり、1960年を振り返る意識のなかで、この歌は、そういう象徴的な意味を附与されるようになったということだ。それはいいかえれば、そのようなものとして、改めてこの歌を聞き直すようになったということでもある。意味附与をしているのは、そのときの現在なのだ。1960年の現在ではない。

 単に個人的な体験・見聞をもとにした印象批評にすぎない――いまどき若い衆世代ならそう一刀両断に片づけて「老害」話法、「団塊」人文系的構文、といったことで一顧だにしなくなりそうな気もするが、だがそうじゃない、逆にそうやって一顧だにせずに見過ごしてしまうあたりが「そういうとこや」と言いたくなるところだったりする。

 たとえば、先のあと、このように続けるあたりの二枚腰、しぶとく何ものかに拘泥しようとする姿勢について、さて、どう反応できるだろう。

 だが、すでに書いたように、絶えざる現在によって生命を吹きこまれるのが歌の常であってみれば、それはやむを得ない事でもある。それをあたかも1960年のことのように考えるのは嘘っ八だが、だからといって、そのような意味を与えようとした60年代のあるときをも否定し去る事は出来ないだろう。そして、1960年に聞いたときには幾つかの断片として沈みこんだこの歌が、ひとまとまりの姿で現われたのは、むしろそのようにうたったときなのだ。 

 個人的な体験・見聞をもとにした印象にすぎないことを、彼はそこからもう一度、それらの自分の記憶の裡でのありようを腑分けしてみようとしている。常に現在でしかなく、その意味で〈いま・ここ〉で常に新たな意味と印象を附与され続ける「うた」の体験のある本質について、はっきりと狙いを定めようとする。だから、そこから引き出されてくる次のシークェンスは必然的に挿話のかたちをとる個別具体になってくる。

 同じようなこととしていえるかどうかわからぬが、60年代末に、われわれの周辺で「再会」がちょっとしたリバイバルをしたことがある。これは、その頃のわれわれがよく通っていた新宿の小さな酒場で、むろんカラオケなどのないときだが、当時『現代詩手帖』の編集長をしていた桑原茂夫が、酔うとこの歌をうたうことから仲間に波及していったのだ。

 何度でもよみがえる「うた」の記憶。自分の裡から腑分けしようとしたことを、今度は自分ではない他の誰かの身の裡にも起こり得たことではないか、という仮説というか確信から、自身の記憶をもう一度探りを入れてみる。もちろん、そこからは描写になる。

 そして、〽ちっいちゃーな青空 監獄の壁を- あ-ああ-あ みいつめつつ というサビになると、われわれもつられて合焦するようになった。そして、そうやってうたってみると、監獄の小さな窓から見える青空がまざまざと感じとれて、わたしは改めて、これが流行したのが、安保闘争の年だったということを想ったりしたものだ。しかし、1960年にこの歌を聞いたときの記憶では、あくまでも愛の歌としてのみ、受けとっていたのである。もちろん、それでいい歌だとどこかで感じていたからこそ、断片的にではあっても記憶していたわけだが、監獄の壁には意識は届いていなかったのだ。それはほぼ十年近い時間をへて、にわかに意識の前面に浮上してきたのである。

 自分だけではないらしい、そのような「うた」の再浮上の〈いま・ここ〉における、ある「場」を介した光景。時間の経過があったからこそ、それは可能だったのではないか。常に〈いま・ここ〉でしかない「うた」の経験は、まただからこそ、時間の経過を味方につけることで、〈いま・ここ〉の現前性を越えたある「普遍」の何ものか、をうっかり獲得もするものらしい。

 われわれは、ノスタルジックに「再会」をうたい、べつにそんなことは口にしなかったが、この歌を1960年に結びつけたりしながら、しかし、それを眼の前の60年代末の状況に重ねたりはしなかったのである。考えてみれば、監獄の壁なるものは、60年よりはむしろ60年代末のそのときのほうが、はるかに現実的だったはずだ。そしてもしかしたら、そうだったからこそ、あのときそれほど熱心に「再会」をうたっていたのかもしれないのである。

 けれども、彼らはそのように意識したわけではない。意識せずに、「ただうたっていたのである。」

 そのずれ、というよりは、現状の暗合がずれとしてしか現われないようなあり方のうちに、歌謡曲の現実態とでもいうべきものがあるのだ。それを、暗合する面だけですくい取ったら嘘である。ずれによってしか顕在化しない歌謡曲の肉体が、見失われてしまうからである。

 松尾和子の「再会」は、佐伯孝夫と吉田正という、当時の本邦流行歌、商品音楽としての「歌謡曲」生産体制のエース級コンビの作品。


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 そして、上野と同様の「うた」に関する個人的な記憶の断片と、それを介して想起される内的イメージについて、また別の無名子のつぶやきがweb環境には転がっていたりする。このように。

松尾和子は、「ムード歌謡の女王」と呼ばれた歌手です。自宅階段から転落して死んだのが、1992年。今から13年も前のことです。


松尾和子はもともとジャズ歌手でしたが、フランク永井の薦めで歌謡界入りしています。そのフランク永井との共演作「東京ナイトクラブ」がデビュー曲で、代表作にもなっています。その後、和田浩とマヒナスターズと「誰よりも君を愛す」、「お座敷小唄」の大ヒットを飛ばしました。


松尾和子は出自(ジャズ歌手)からか、歌が上手い歌手とされていますが、わたしの感触は違います。歌唱力よりも雰囲気(ムード)の人で、その悩ましげなヴォーカルスタイルが唯一無二です。前述したヒット曲はいずれも共演作ですが、単独での代表的ヒットは、何といっても1960年の「再会」です。


「再会」はムード歌謡というより、シットリとしたポップ調の曲です。歌詞は、切々と女心を歌うという歌謡曲得意のパターンです。歌詞の一番と三番は、それこそありふれた心象の描写ですね。


ところが、二番は異色です。恋愛とはほど遠いと想われる、「監獄」が突然出てきますから。


1960年当時わたしは11才で、「再会」が街に流れていたのを憶えています。しかし、歌詞の中に監獄があったのは知りませんでした。知ったのは、五六年前に買った松尾和子のベスト盤CDを聴いてです。(蛇足ですが、このCDを聴いて、松尾和子はわたしのタイプの歌手ではないことが分かりました。わたしとっては「お座敷小唄」で必要充分です。)


その時は、「ああ、そういう曲だったのか」と少し驚きました。監獄が出てくる曲では、プレスリーの「監獄ロック」が有名ですが、あれは今のヒップホップみたいな曲。「再会」とはまったく情況設定が違います。「再会」は日本歌謡史上稀な、監獄を間に挟んだ愛の歌です。Googleのイメージ検索で、「再会」のシングルジャケットを見ましたが、確かに女が刑務所の塀の前に立っています。


ここで想像力の豊かなわたしは、獄中の男の罪についてあれこれ考えてしまいます。窃盗だろうか、傷害だろうか、それとも寸借詐欺、置き引きだろうか。しかしどう考えても、ピッタリな罪状が見つかりません。これが思想犯だとしたら、問題なく収まるのですが、歌詞にそのようなニュアンスは皆無です。

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 個人的な体験や記憶が、どのような回路を介してその他おおぜいの想像力と通底しているのか。それについての理屈や理論づけはまたいくらでもあり得るのだろうが、それらとは別に、そのように世間一般その他おおぜいの想像力と、他でもないこの自分、まごうかたない「個」であるはずのかけがえのない体験や記憶とが双方全く無関係にあり得るものではないらしい、という立場に立った「社会」や「歴史」「文化」についての視野は、おそらくこれまであたりまえのように思われているそれらを扱う手続きや手癖の習い性からは、考えられる以上に〈それ以外〉の別もの、になっているものらしい。

*1:ここ数年の自分の作業としているお題に関連して、改めてこういうことも考えなおしてみなければならなくなっているという意味での、まあ、私的な備忘録として。「個」と「集団」の相関と記憶や想像力の水準の関係について、というのは間違いなくあの柳田的な意味での「民俗学」の初志の裡に設定されていた基本的な問い方のひとつではあったはずなのだが、さて。