伏線とフラグ・メモ

 小説読者がやたらに伏線とその回収を重視している傾向について考えていたのだけど、どうも最近のあれ、伏線じゃないんじゃないかと思えてきた。じゃあ何かというと、フラグです。


 もともと伏線というのはミステリなどで謎解きがあった場合、作品の前のほうにその謎解きの正当性を担保させるような事実を紛れ込ませていくこと。この「紛れ込ませる」というのが眼目で、読んでいるときに伏線と気付かせないことが必要なわけ。


 しかし最近は「ここに伏線があるからいずれ回収されるはずでは?」という読み方をしているように感じる。だけど初読の段階ですぐにわかる伏線というのは伏線として劣っているか、あるいは全然違うものだ。少なくともミステリではね。


 一方フラグというのは本来ゲームで条件をクリアしたかしていないかを記録し、次の展開へと進めるものだった。それが次の展開を予期させる事象が出現したことを「フラグが立つ」と呼ばれはじめる。さらに死亡フラグのように次に起こるであろう展開を約束するものになり伏線と見なされるようになった。


 そうなると「○○が起きたから××が起きるはず」という予想が読者の中に生まれ、それが予想どおりになることで満足を得る、という読み方が広まってくる。これは正直、あまりよろしくないことだと思っている。先の展開が予想どおりでないと面白くないと思われてしまいかねないからだ。


 作者が伏線と思わずに書いていることでも読者が違和感を抱けば「これは伏線かも」と先入観を持たれる。作者は伏線と思ってないからその先に何も展開を作らなければ読者は「伏線回収してない」と不満を持ちかねない。


 だからって読者に「読み方を変えろ」と指示することなどできないし、するべきでもない。読書の楽しみ方は自由だ。「伏線」という「フラグ」重視で読んでもいい。ただし、ただ作者としては「それ伏線じゃないし」と心の中で抗議するけどね。

 もはやミステリーなんて求めていないのでは。
 今の伏線と呼ばれるフラグは言わば「多少複雑さを帯びた茶番」で、実際に求めるのはお約束の展開。
 そこにミステリー未満の「脆弱な謎」がスパイスとして入ると、鼻を明かした気分になれるから好まれているだけ。

 イアン・マキューアンの『土曜日』を読んだ時、こちらの空振りぶりに殴られた気がしました。
 伏線が思い通りに回収されると作家様との共同作業に発展したようで嬉しいのも事実ですが、やはり思わぬ方に話が転がった方が楽しいです。映画館で予告編は目をつぶる派です。