小沢一郎の転落・メモ

 小沢一郎さん支持者

 ・日本改造計画や93年の自民離党以降の政治行動を支持した方
 ・09年の西松建設以降の検察(=国家権力)との戦いを見て支持した方

 民主党政権が出来て間もない頃まではこの2つの支持者のバランスがうまく取れていると感じたものの、10年の代表選に現職・菅直人首相の対抗として、僅か3か月前に幹事長を辞した小沢さん本人が出馬。参院選は大敗したものの、菅首相は就任して3か月。この出馬には非小沢系民主党国会議員の中で困惑があったようで、結果は党員票は予想通りの大差で菅首相に敗北。優位とみられた議員票も菅首相に僅かな差とはいえ敗北。求心力低下が言われるように


 翌年11年3月に東日本大震災が発災。小沢さんの地元である岩手県も甚大な被害が生じる。その際、小沢さんは国家が大事として地元には中々帰らず、実際に訪れたのは半年後の9月。田中角栄の愛弟子と言われ、日本改造計画や93年自民離党後の行動を支持する人の中で失望、離れる人が出始めたのがこの頃


 小沢さん自身、前年の検察審査会による強制起訴やその後の民主党からの党員資格停止処分で震災復興に前面で関わることができず、身動きがとれない焦りからか菅内閣への政策等の提言ではなく倒閣の方に動き出してしまいます。この動きに対し、小沢さん支持議員の中で違う意見・行動が表面化します


 藤井裕久財務相平野達男 参院議員といった小沢グループに属するものの中間派の議員からは大震災発災という状況での倒閣運動は国民からの理解が得られないと考えていた。実際、菅内閣の支持率は低調だったものの、小沢さん主導の倒閣運動を支持する世論はあまり高くなく、追い詰められていきます


 民主党執行部は賛成、欠席者には厳正な処分をすると宣告。中間派からは野党から出される不信任決議にいかなる理由があったとしても与党の議員として賛成するのはいかがなものかといった意見もあり、小沢さんと同調する議員たちはさらに苦しい立場に・・・


 執行部が処分をちらつかせながら、不信任賛成派を説得し切り崩す。不信任決議前夜に賛成をTVカメラの前で表明しながら、一夜明けたら、反対表明なんていうことは当たり前の状況に・・・ 菅首相と鳩山さんの密室会談で中途半端にまとめられ、その結果を聞かされた小沢さんは結果的に丸め込まられ、苦渋の決断という事で菅首相の中途半端な退陣表明を受け入れ、不信任決議を採決する本会議は反対ではなく棄権にまわる。一連の行動により、求心力がさらに低下。その後の菅首相退陣後の民主党代表選では海江田万里さんを支持、しかし野田佳彦さんが代表に。小沢さんにとって代表選3連敗


 年が明けた12年は消費増税政局といっても過言ではない状況で、3月末は小沢Gの政務三役4人が辞表を提出、一方で辞表提出をしない政務三役も複数いて、この時既に小沢Gは分裂含みだったことがわかります。また、同時並行の形で陸山会の裁判も開かれていて、12年4月の一審判決では小沢さん側が敗訴。


 前年の11年に首相になった野田首相と小沢さんは消費増税を巡る意見の違いもあったが、元々は細川政権崩壊や新進党解党といった過去の経緯から相容れない所があり合意には至らず、決裂。野田首相が政治生命をかけたといわれる消費増税の為の三党合意に小沢さんは反対票を投じる。小沢Gは離党へ動く


 小沢Gの離党の動きに、民主党執行部は小沢さんらの届を受理せず除籍処分に。その過程で奥村展三三井辨雄中塚一宏階猛の4氏の小沢さんに近い衆院議員は同調せず、民主党に残留。中でも階猛 衆院議員とはその後も関係修復が出来ないままの関係となり今に至る


 民主から除籍された小沢さんは12年夏に新党設立。その後の12年秋の民主党代表選は結果は野田首相が再選されたのだが、小沢さんに近い議員は細野豪志さんを擁立しようと試み、本人も含みを見せたが結果立候補せず。12年11月、小沢さんの陸山会事件控訴審判決があり、逆転での小沢さんの無罪判決


 小沢さんにとって政権与党・民主党を離党した後での無罪判決で時すでに遅しであった。それでも無罪判決後、小沢さんは首相交代ができないかを模索。ここで再びポスト野田として細野豪志さんを擁立しようを試みるものの、それを察知した野田首相が異例の衆院解散事前予告を党首討論で行い、封じた


 12年の衆院解散後、それでも小沢さんは他党や地方の首長との連携を模索。他党の国会議員では亀井静香さんと議員ではなかったが鈴木宗男さんとも協力を構築。首長では前 都知事石原慎太郎さんには断られるが、嘉田由紀子滋賀県知事、河村たかし名古屋市長との連携に成功。日本未来の党を立ち上げる


 未来の党での小沢さんは過去を前例踏襲した形。細川~羽田政権は細川さんや羽田さんを総理に、新進党では最初1年は海部俊樹さんを党首、民主党政権では鳩山さんを首相にしたり・・・ 未来の党でも嘉田由紀子さんを党首にして小沢さんは一兵卒として支える側にまわり当選者を増やそうとした所・・・


 自公復活、維新躍進、みんなの党が健闘の中、民主党議員への有権者の目は当然ながら厳しく、それは離党した人に対しても同様で未来の党は選挙前:61から大きく減らし当選者:7と惨敗。選挙後すぐに内紛が発生、亀井静香さんは早々に離党し、残った人も嘉田知事派と小沢派に別れる事態に。


 その後の小沢さんの事は省略します。小沢さんは93年の自民離党後から20年弱に渡り政界の中心にいましたが、12年衆院選で自公に再度政権交代した後、政界の中心は安倍さんに代わったと考えます。小沢さんの安倍さんや自民党への口撃等はとても元自民党幹事長のツイートだとは思えないものが多い。


 小沢さんは過去の離合集散で最側近として支えた二階俊博さんや藤井裕久さん、小沢さんの提示する政策を考えた中堅議員(例えば階猛さんや中塚一宏さん等)が次々と離れていき、現在も続くなんでも反対な議員になってしまいました。これは小沢さんの支持者の変遷にもいえることで、著書(日本改造計画)や自民離党後の政治行動を支持した人にとって、なんでも反対ばかりを言う議員を支持できるわけがないのです。3.11後に早期の地元入りしない事に落胆、対案を提示せず安易に倒閣運動することに落胆、妥協策や対案を言わず反〇〇ばかりいうことに落胆。この過程で支持が減りました。


 かつての小沢さん支持者には物事を俯瞰してみる事ができる人が結構いたものです。ただ、前に書いた出来事でそういう支持者はどんどん離れていきました。代わりに小沢さんを支持するようになったのは、西松建設陸山会での小沢さん対検察(国家権力)という観点でなった人たち。


 色々な経緯はあったものの自民党幹事長をやったのに離党までして自民に対抗する保守の軸を作ろうとした姿勢を支持した人と、西松や陸山会で検察と戦う姿を支持した人では、小沢さんに対する考えがまるで違うわけです。検察とのせめぎ合いの過程で小沢さん自身、反〇〇の主張が多くなっていきます。


 自民党新生党新進党自由党、(政権を取る頃までの)民主党時代の小沢さんは政策立案をする議員や各所との調整ができる議員やそれを支える支持者あっての方だということがよくわかる今の状況だといえます。今、近くにいる議員や元議員を見ればかつての輝きを取り戻すのはもはや無理だと諦めます。