まとめました。
— shinshinohara (@ShinShinohara) 2023年4月28日
竹中平蔵氏はひどく賢い|shinshinohara #note https://t.co/EyDppKJnNH
竹中平蔵氏はひどく賢い人だと思う。「頑張る人間には報い、そうでない人は淘汰される、それが競争社会、これからそれがますます加速する」と主張。この論理は実に巧み。高給をもらっている人は「自分が頑張っているからだ」と自信を深める。貧困にあえぐ人は自分に力がないからだと自らを責める。
しかし有能だとされて高給をつかむのはごく一部。そうでない人は派遣社員や契約社員などになるしかなく、正社員でも給与水準を下げられ。こうすると、高給取りと正社員と派遣・契約社員とが互いにいがみ合う。労働者同士で反目し合う。「協働」が難しくなってしまう。
「これから競争社会になる」と言えば竹中氏に非はなく、世の中が勝手にそうなるのだと、世界のせいにできる。こうした構造を作った上で、派遣会社の会長におさまり、派遣社員から上前をはねて自分の収入にする。実に賢い。
また、労働者同士がいがみ合い、反目し合う中で、株主への還元をやかましく言う株主資本主義に誘導。労働者の賃金を抑えた分、株主への配当を厚めに渡す構造に。何のことはない、労働者同士が反目し合ううちに株主が漁夫の利を得る構造をまんまと構築。この流れを押したのが竹中氏と言ってよいだろう。
株主は竹中氏の発言が重さを増せば増すほど株主資本主義へと重心が移るから竹中氏を持ち上げる。竹中氏は自らの仕事と収入が増えるから、ますます労働者同士でいがみ合い、株主が何をしているのか気づかないように目眩ましとなる発言を繰り返す。しかも竹中氏の弁論は巧みで、真の狙いが分からない。
結果、竹中氏はものの見事に労働者の分断に成功し、労働組合はボロボロになって機能しなくなり、労働者の賃金は下がり、経営者と株主が漁夫の利を得る構造ができるよう手助けをした。竹中氏がいなければ、ここまで巧みに社会が変わらなかったかもしれない。竹中氏の弁舌の力はとても大きい。
しかも興味深いのは、株主と言っても日本人とは限らないこと。外国人投資家が日本の株式市場でかなりの存在感を見せている。かつては株の持ち合いで外国人投資家に手出しさせなかった日本だが、自ら株の持ち合い規制をし、外国人投資家が入り込む余地を作り、株主資本主義を招き込んだ。
結果、竹中氏の弁舌は、日本の労働者の賃金を抑えた分、外国人投資家に貢いだ格好になっているように思う。竹中氏は外国人投資家のために実によく働いたと言える。それと狙いが分からない弁舌で、こうした結果を狙っていたのだとしたら、賢すぎる。あまりにも巧妙。
竹中氏と仲の良い菅前首相は、日本に高級ホテルを作ったりIRのような、それこそ金持ちが遊ぶような施設を作ることに熱心だった。その利用者は、外国人の富裕層を想定していたようだ。あれ?だとすると、菅氏と竹中氏は、外国人投資家と心が通じ合っているのかな?意気投合?利害一致?
日本の労働者の賃金を抑え、そのお金を外国人投資家に貢ぎ、彼らが歓楽する高級ホテルと遊興施設を作る。日本の労働者は、外国人の富裕層(と、わずかな日本の富裕層)のために低賃金で仕える社会に。竹中氏の巧みな弁舌は、そちらに社会を誘導する素晴らしい力がある。
しかし、新型コロナで多くの労働者が困窮し、世論が変化した。円安になり、諸物価が上がり、今のままの低賃金ではまさに生きていけなくなってきた。給料を上げなければ、という世論に変化し始めた。政治家も経営者もそちらにシフトしたら、不十分と言っても給料は上がる方向へと動き出している。
あれ?竹中氏は競争社会がますますひどくなり、頑張らない労働者はスポイルされるのが当然なようなこと言ってたけど、社会の空気が変わったら、そちらの方向ではなくなりつつある。だとしたら、竹中氏の言ってた世の中の変化、空気は、竹中氏が作り上げたもので、別に必然でも何でもないのでは?
竹中氏の弁舌は、日本の労働者を苦境に陥れ、外国人投資家に利をもたらす上で、素晴らしい触媒になったと思う。竹中氏の意見が受け入れられる素地が社会にあったとは言え、竹中氏でなければここまで加速しただろうか。そのくらい、竹中氏の弁舌は触媒として優れていたように思う。
しかし、竹中氏の主張する世の動きは、決して必然ではない。人の世のことだからだ。人の世のことは、人が決められる。竹中氏はそれを知っていて、世の流れを変えようとし、そして成功させたのだろう。労働者の賃金を減らし、外国人投資家が儲かる社会の実現を達成した。見事。
しかし、「サピエンス全史」のハラル氏が言うように、お金というものが、あるいは社会制度もが、人間の作り出した虚像でしかないなら、私達はその虚像を自ら作り出すこともできる。労働者の賃金を減らす社会じゃない社会を作ることだってできるはず。
弁舌というのは、結晶の「核」になることがある。ミョウバンの大きな結晶を作ろうと思ったら、小さな結晶を核として漬けておけば、結晶は大きく成長する。竹中氏の弁舌は、そうした結晶の「核」として機能したのだと言えるかもしれない。
日本はバブル前後で圧倒的な力を有していた。その時、西欧諸国は日本の強さに恐怖した。何とかこれを弱体化したい。それがプラザ合意やBIS規制、半導体規制、株の持ち合い規制、大店法改正など、多岐にわたるルール改正だった。それらが日本の強みを削いでいった。
とどめが、工場労働者への派遣社員の規制混和ではないか。これにより日本の労働者は、正社員と非正規社員とが反目し合う、いや、そこまでは言わなくても協働を難しくする労働環境を作った。会社の一体感を破壊し、開発力も失い、賃金は派遣社員だけでなく正社員も減っていった。
竹中氏は、日本の圧倒的な強さを削ぐためにその巧みな弁舌を振るったのではなかろうか、と思いたくなるほどの成功を遂げた。日本の強みを破壊したい、と願う人たちにとって、竹中氏の弁説と提案はこれ以上ないほど素晴らしいものだったのではないか。分かっていてやっていたなら、竹中氏は相当賢い。
もし、こうした結末を招くことが分からずにこれまでの弁舌をしていたのなら、経済学者の看板は外した方がよいと思う。経済とは、経世済民(世をおさめ、民をすくう)から来ている。なのに竹中氏の誘導した社会は、それとは正反対の姿になっていはしまいか。竹中氏の言ってた通りの社会にはなったが。
竹中氏は実に賢い。議論したら負ける自信がある。実際、彼がしゃべって勝てる弁者は見当たらない。そして竹中氏の弁舌が核となり、ある社会が結晶化していく。労働者の賃金が下げられ、その分を株主に還元し、かなりの量を外国人投資家に渡す構造の社会。
そんな社会を私達は望んでよいのだろうか。拡大した格差社会は、結局、富裕層にも安心できない社会となる。アメリカの富裕層の乳児死亡率は、意外に高い。ベビーシッターの赤ちゃんへの虐待がよく報道されていた。ベビーシッターをするのは、しばしば貧困層。
私の祖母の知人は、大人になっても小学生のように背が低かった。赤ちゃんの頃、お手伝いさんが床に叩き落とし、命は助かったけど背が伸びなくなったという。格差が広がり、人を見下す社会になったとき、富裕層はお金があったとしても家族を守れるとは限らない。
日本は貧富の格差が小さいことで、世界でも稀に見る治安のよい社会を維持してきた。しかしもしこれ以上格差が広がったら、治安のよさを維持できるかは分からない。貧困にあえぐ人が増えれば、自暴自棄になる人も増えるから。
山本周五郎の作品。若い女性が殺人の下手人となった。しかしその女性は近所の評判もよく、殺人を犯すように思えなかった主人公は証拠を探し、無実を証明した。しかしその結末は意外なものだった。
「なぜウソをついたのか」と問われた女性は「疲れたのです、もう何もかもイヤになっていたのです」
女性は、病気で動けない父親を抱え、幼い弟妹を一人で養っていた。こんな条件では結婚することも望めない。将来を絶望し、日々の生活に疲れ切っていた女性は、すべてを終わらせたくなった。殺人の下手人になったとき、「ようやく解放される」と思った。しかし無実になったため。つらく苦しい生活に逆戻りに。主人公はそうした事情を知り、自分は何もわかっていなかった、と悔やむ。あまりにも格差が広がり、生活が苦しくなると、処罰や死刑がむしろ楽になる方法に見えるようになる。苦しみを終わらせる方法として魅力を感じてしまうことがある。
日本社会はもはや、「いっそ犯罪をおかして、人生を終わらせたい」と願う人たちを多数抱えるまでになっているのではないか。だとしたら、富裕層は、どれだけ警察力を高めようと、法律を厳しくしようと、身を守るには不十分となる。ベビーシッターも怖くて頼めなくなりかねない。
竹中氏が壊した社会を、もう一度修復する作業にかからねばならないのではないか。外国人投資家を排除する必要はないが、日本の労働者を犠牲にしてまで大切にすることはない、という腹を持つことは大切ではないか。日本に住む人々と、真にウィンウィンになる関係を探すべきではないか。
竹中氏の巧みな弁舌が、自分たちの有利に働くとして応援する人たちがいる。しかし、あまりにも耳を傾けすぎたのではないか。そのために日本は弱体化したのではないか。ここ二十年は、失わずに済んだ時間だったかもしれない。しかし済んだことはいかんともしがたい。これからのことを考えなければ。
私達の社会をどうやって修復していくか。二十年かけて破壊したものは、かなりの時間がかかるだろう。しかし日本に住む誰にとっても良くない状況が続くくらいなら、変えた方がよい。私達は、竹中氏の賢さにもう惑わされない方がよいように思う。