天安門事件30年・メモ

*1
tameike.net

<6月4日>(火)

霞山会が出している『東亜』という雑誌がある。中国(や台湾)を研究している人なら、たぶん欠かさず読んでいる月刊誌である。今月号は「1989年の分水嶺」という特集が組まれていて、その中に「天安門事件とその後の中国の急速な台頭を振り返って」という座談会が掲載されている。


○これを読んで30年前をしみじみ思い出しました。さあ、クイズです。6月4日に天安門事件が起きた時、日本は誰が首相だったでしょうか。答えは今日の最後の部分で。


○以下は筆者が「言われてみたら、確かにそうだった!」と思い出したこと。いやー、30年前と言ったら、ワシはまだ20代でしたからな。


天安門事件が起きた翌月には、フランスでアルシュG7サミットが行われた。当時のフランスはなんと「フランス革命200周年!」。だから議長を務めたミッテラン大統領は、「自由や人権を弾圧する国に未来はない」と中国を激しく非難した。当時の7カ国の中で、もっとも中国寄りだったのは日本。「中国を孤立させてはいけない」と他国を説得する側だった。


――1789年+200年=1989年。ちょうどパリ祭の真っただ中の7月14日に、パリ郊外のアルシュでサミットは行われました。


●日本が中国側に立った理由は、「毛沢東の時代に戻ってもらっては困る」から。当時は鄧小平の改革開放路線が始まってまだ10年くらいだった。G7のコミュニケの内容を中国に伝える役目は日本に任された。外務省は当時、中国大使館の公使だった唐家セン氏を呼んで内容を通告した。中国政府としては内政干渉は受け入れられないが、日本の対応は評価する、といった反応だった。


――当時の日本は竹下派の時代でしたからね。日本全体でも対中感情はまだ良かったし、財界人の中にも贖罪意識を持った人が少なくなかったのです。


●当時、中国に進出していた日本企業は対応に大わらわ。最初は家族を日本に返し、それから駐在員も帰国した。JALとANAが特別機を出した。最後まで残ったのは松下電器と丸紅だった。仕事がないから、社員がゴルフばかりしていたところ、李鵬首相がゴルフ場を訪ねてきて残っていることを褒めてくれた。


――当時の日商岩井では、ワシの同期のK君が「家に弾丸が撃ち込まれた」と言って這う這うの体で帰国していた。そりゃ逃げるよ。当時の中国貿易室には、帰って来たけど仕事がない社員が溢れていました。対中ODAも打ち切りになっちゃうし。もっとも1年半後には復活します。


●今でも判断が分かれるのは1992年の天皇訪中である。日本側としてはいろんな議論の末に決断したことであったが、銭其シン外交部長がのちに回顧録の中で、「天安門事件での経済制裁解除を目指して、天皇訪中を利用した」と暴露している。まことに腹立たしい話である。


――1992年といえば、領海法が制定されていて、南沙諸島などの保有を主張し出したときでもあります。そういえば岡崎久彦大使は天皇訪中に反対してました。


●当時、天皇訪中に同行した池田維アジア局長は、後にオランダ大使を務めていた2000年に、天皇陛下がオランダを訪問された際に、「ところで私の中国訪問はよかったと思いますか」と尋ねられたとのこと。1998年の江沢民訪日の際に、宮中晩さん会で「日本は歴史問題を忘れるな」と言ったことを、気にしておられたのではないか・・・・。


――このことを池田大使はずっと秘密にしていて、退位が決まった後の2018年2月に初めてメディアに対して語ったのだそうです。ちなみに池田大使は、2016年に中央公論新社から『激動のアジア外交とともに』というオーラル・ヒストリーを出版されていますが、そっちにはこの話は出ていません。


○こうやってつなぎ合わせていくと、日本はものすごい長期戦略で中国に騙され続けていたのではないか、と思えてくる。まあ、彼らも必死だったのですかねえ。ちなみに冒頭のクイズの答えは宇野宗佑です。私はコレ(三本指)で首相を辞めました。

*1:Twitterに潜んでいる専門家の、「現場」の人であろうがゆえの距離感の正確な〈いま・ここ〉からの雑感。自分が棲息してきている環境や生態系からはアウェィな領分を及ばずながら測候してみようとするためのよすがとして。