「異物」の〈リアル〉、について

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 めくら、つんぼ、おし、その他いわゆる「差別語」を抑圧してきた結果、そういうことば自体を知らない若い衆世代がすでに30代以下になっている昨今だけれども、それって現実認識にも当然影響与えてるはず、ということは前々から言うとるが、当然、マンガやアニメなどの表現にも影響してないん? と、ふと。つまり、そういう「差別語」で捕捉、認識されていた対象の描き/描かれ方が変わってきているとか、あるいは、そもそも描かなくなっている、とかも含めて。

 たとえば、最近の本邦製作のアニメでそういう「差別語」対象な登場人物なり何なり、今様「キャラ」としてでなく、少なくともリアル (定義によるがそれはともかく) に描いたものってあったりするんだろうか。それこそ『童夢』に出てきたヨッちゃんだっけか、こういう以前は日常にフツーにいた (いや、今もいるんだが) ちょっと「足りない」コ、の〈リアル〉とか。*2
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 いや、怪物だったりモンスターだったりといった「キャラ」として描かれてるよ、っていうのは、それはそれでわかるんだけれど、でも、そういう意味じゃなくて、当の描き手も読み手も含めた日常の中で、当たり前にそこにいる/いてしまう存在としての〈リアル〉というのがもう、実感も体感もしにくくなっている環境が本邦のフツーになっていると言えばなっているらしいわけで。*1
 これなんか、いまどきですよ、と若い衆に教えてもらったんだが。いや、確かに一応そうではあるんだろうが。


聲の形 好き

 おし、つまり唖者をちゃんと描いている、それもその内面、ココロに焦点をあてて、といった評価、評判のされ方をしているのもわかるし、なるほどそれはいまどきこういう形になるのか、ではあるんだけれども、ただ、やっぱりこれは「異物」としての〈リアル〉が足りない。いや、足りる足りないというよりも、造っている人がたの側にそういう「異物」という感覚自体がおそらくもう、日常的にその暮らしの中で共有されていないんじゃないか、と思う。

 足りる足りないならば、それが必要だと思えば足りるようにしてゆく技術なり、知識の吸収なり、いまどきのこと、それこそいくらでも外形的な「情報」としてなら補足して自分のハンドリングできる「知識」として貯め込んでもゆけるだろうし、それらをうまく再構成してそれっぽく造ることもまた、できるはずなんだろうけれども、でも、そもそもの違和感はきっとそういうところにひっかかっているのではない。

 うまく言えないのだが、同じいまどきアニメ作品なら一般的にも評判になっていたこれ、に対する違和感にも通じる何ものか、だったりする。


「君の名は。」予告


Kimi no Na wa.『君の名は。』Official MV - Sparkle

 物語の重要な要素として設定されていた東京と地方(岐阜県の奥の方、つまり飛騨地方だったか)、つまりマチとイナカの、その間に横たわっている「距離」や「時間」や、その前提の上に否応なく存在しているはずのさまざまな「違い」についての感覚自体が、これを作品として提示している人がたにはそもそももうないんだろうな、だからこんなにあっさりと、それこそ物語の「設定」としての「処理」みたいにマチとイナカの間をひっかかりなく描いてしまえるんだろうな、それでもそういう「設定」としての「マチとイナカ」だけは淡々と機能させることができているんだな、そういう約束事としての「設定」だけで物語は流れてゆくことができるし、何よりそれで構わない、いや、それだからこそ〈リアル〉と感じられるようなココロのあり方が共有されている人がたにはこれが素直に「感動」できるものになっているんだろうな――そんなことを映画館で観ながらあれこれ考えていたら何かいたたまれなくなり、申し訳ないが途中で席を立って帰ろうか、と思ったくらいだった。

 これまでと違う〈リアル〉がすでに平然とあるらしい。そしてその「違い」は、ここ30年ほどの間に大きく変わっていったこの国の情報環境と、その裡で育まれていった人がたの感覚やココロのありように、自明にはらまれているものらしい。

 この「違い」、たとえば外国人の問題なんかにも通じるはずで。つまりホンモノの、マジもんの「異物」、リクツや能書き以前の圧倒的な個別具体のイキモノ&ナマモノとしての「違い」をまとった存在に対するそういう体感や実感自体が、本邦いまどきの環境に育って生きてきた側の感覚やココロからは稀薄にならざるを得なくなっているのだとしたら、その分、そのように問答無用で「異物」であるだろう外国人が大量に身の回りに、日々の日常に立ち交じるようになってもなお、その「異物」であることをわれら同胞の多くはまず認識できず、実感も体感もうまくできないようになっているかも知れない、ある種そういうヤバさなわけで。*3

*1:タイトルに「めくら、つんぼ、おし」とやると規制にひっかかるかも知れないので、とりあえず忖度してみた。

*2:言うまでもなく大友克洋の、であります。当時でもこのヨッちゃんの〈リアル〉は衝撃的ではあった。こういう表情、こういう「大きさ」、こういうジャージの着崩れ方……もしかしたらあの『フルメタルジャケット』のほほえみデブも、アメリカ若い衆的にはこういう〈リアル〉なところあったんでないかな、とかも含めて。

*3:「差別語」復権の必要というのもずいぶん前から言ってるし、若い衆相手にゃ簡単な辞書というか目録めいたものもこさえたりしたことが何度もある。ことばを失えばそのことばに紐付けられていた現実も見えなくなるし、当然その背後の実感や体感などもなかったことになってゆく。〈リアル〉が変貌してゆく、というのはある意味、そういう過程なんだと思っている。

*1:ヨッちゃん、の〈リアル〉の別な方向で煮詰めたら、たとえばこのみすずちゃんになったりするんだとおも、いや、これはかなりマジメに。本邦マンガ表現の話法&文法の融通無碍と、それを平然と「読む」で受け止めてきた読み手のリテラシーの連携技としては。このへん走り書きなれど要検討&どこかでまた。

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