遠ざかる「オシャレ」・雑感

岡崎京子のまんがは現在のティーンエイジャーにはまったくウケないのだそうだ「なぜわざと不幸になるのか」という点が理解不能の由、しかしおれ世代に太宰治がまったく響かなかったことを想えばさもありなんではある。 pic.twitter.com/wj62F85Ue0— 𝙏𝙖𝙠𝙖𝙜𝙞 𝙎…


𝙏𝙖𝙠𝙖𝙜𝙞 𝙎𝙤𝙩𝙖 on Twitter: "岡崎京子のまんがは現在のティーンエイジャーにはまったくウケないのだそうだ「なぜわざと不幸になるのか」という点が理解不能の由、しかしおれ世代に太宰治がまったく響かなかったことを想えばさもありなんではある。 https://t.co/wj62F85Ue0"

記事元:twitter.com/TakagiSota

 かるく衝撃ではあった、このtweet

 あ、いや、もちろん「ああ、そういうことってあるよなぁ」という既視感も含めてのことではあるのだが。

 「なぜ、わざと不幸になるのか」――この違和感は、少し前まであたりまえに共有されていた本邦「民俗」レベル含めたある種の「おはなし」のたてつけ自体に対する違和感でもあるだろうな、と。そしてそれは、たとえば貴種流離譚だの、ビルドゥングス・ロマン何だのと、いずれそのような人文系ガクモンの脈絡であれこれリクツづけられてきた、それはそれでグローバルでもあった「おはなし」一般のそれに対する異議申し立てでもあるような。もちろん、本邦の「ブンガク」自体に対する破壊力は言うまでもなく。まあ、「ブンガク」とその周辺の当事者たちがそのように気づくかどうかは知らんけれども。

 フリッパーズギターもただただ奇怪なだけで、これのどこが「オシャレ」という概念と結びつくのか、どうしても理解できない由、まあこれもおれ世代に石原裕次郎小林旭が奇怪なものと映ったのと同じである。現在のティーンエイジャーにも80年代の音楽やファッションを愛でる者はいるが、それはおれ世代にも戦前SP盤やモボモガの衣装を集めている好事家がいたのと同じで、決していにしえびとと感覚を共有しているわけではない。

 「オシャレ」というのを「流行の尖端」とするなら、それゆえの異形ぶりというのはいつの時代であれ常にあるのだとしても、ただ、その突出した異形ぶりに何を見出すのか、言い換えればどう「よむ」のか、というあたりの問いになってくるのだろう。

 そんなもの、味気なく言えば万人に受け入れられるようなものでもなく、これまたいつの時代もごく一部のちょっと「変わった」感覚、何らかの鋭敏な「センス」を良くも悪くもうっかり持ってしまったような人がたにとって、初めて「オシャレ」と解釈され意味づけられるようなもののはずで、それがその時代なりその社会なりのある程度の普遍として一般的な「オシャレ」となってゆくと、そこで初めて「流行」となり、同時にそこから陳腐化通俗化も始まる、と。古今東西おそらくそう変わりのない「世相」と「オシャレ」と「流行」の相関のありよう。

 ただ、ここで言われているのはそんな一般論などではもちろんなく、自分自身が生きているこの〈いま・ここ〉の内側にすでにそのようなズレ、かつて自分が間違いなくそう感じていたはずの「オシャレ」という判断やそれらの感覚の基準の記憶に否応なく介在してくるらしい〈それ以外〉の気配についてのおどろきや当惑、なのだろうが。

 友人のファッション専門学校講師の授業「戦後の欧米諸国でLSDがいかに思想政治文化に広範な影響を与えたか」ベトナム戦争からS・ジョブズまで熱弁を振るったが、10代の生徒たちはまったく要領を得ない「なぜ違法な毒物をわざわざ摂取するのか?」その一点がどうしても理解できないらしいのだ。若者も賢くなり、リスクを取ってワクグミから逸脱しなくとも、既存のワクグミの内側にも広大な未知の領域を見出せるようになったのである、これこそインターネットの功績ではないか。

 ズレは常にあり、〈それ以外〉からの侵犯もまたいつの時代もあり得るものだとしても、その間をつないでゆくための道具だての類から何か深刻な亀裂がはらまれているらしい、という懸念。先の「なぜ、わざと不幸になるのか」と全く同じ水準で、「なぜ、違法な毒物をわざわざ摂取するのか」というギモンの遍在の現在。内面的な懊悩だの苦悩だの、いずれそういう「個」と「自分」「自意識」「自我」にまつわってくるあれこれの七転八倒が、時代が変わったからとてそうそう解消されるはずもなく、いや、それどころか時代はさらに「近代」を深めて別の何ものかの方へとうっかり底を抜けてゆくような事態になりつつあるのに、「個」や「自意識」の七転八倒がなかったことになるわけがない。

 だとしたら、その七転八倒のあらわれ方が変わってきている、その可能性は見ておかねばならない。「ワクグミから逸脱しなくとも、既存のワクグミの内側にも広大な未知の領域を見出せるようになった」のだとしたら、それはあの攻殻機動隊などの設定の背後に見られる世界観、「内面」の意味がこれまでと裏返ってきているらしいこととも通底しているのかも知れず。

 人間の幸福は要するに脳内麻薬物質さえ大量に分泌できれば手段など何でも良いわけで、昔は権力に脳内麻薬物質が統制されていたのが、インターネットによってコンテンツ量が爆発的に増えて統制しきれなくなったという話なのではないか。

 「脳内麻薬物質」などという言い方に収斂させてゆく手癖はこちとら持ち合わせていない野暮天だから、ここはひとつ、何らかの生身の躍動、グッときたりいたたまれなくなったり、いずれそういう自分自身ではにわかに制御しかねるような「感動」の類、という具合にゆるく開いておこう。それら「感動」をもたらす「関係」や「場」が、必ずしも「感動」のための必須の条件でもなくなってきたように感じられる分、その「インターネット」という空間に充満しているらしい「コンテンツ」の「量」が、生身同士の「関係」や「場」に何らかの掩体を設定して、擬似的な「感動」を宿せるくらいの密度や濃度を達成している――ざっとそういう見立てがここには示されている、ということになる。

 それでも、なのだ。

 そのような昂奮なりラリパッパなりに等しい状態、「感動」はそこまできれいに環境にだけ規定されると考えていいものだろうか。「権力」に統制される「感動」というのは、構造なり制度なりとしてはひとつの見立てとしてあり得るにしても、最後の最後、他でもないこの自分の生身ごと「感動」するというどうしようもない〈リアル〉については、それら見立てに全部回収させてしまえるものなのだろうか。