資料拡大の現在

 「歴史」も「社会」も、いずれ現実と称される水準の最大公約数な〈リアル〉を形成しとる共有素材は限られとるわけで、常にその向こう側に未だ素材/資料化されていない領分があるということをさて、どのように「わかる」に織り込んでゆけるのか。


 それらを素材/資料化してゆく新たな技術も開発されて、それこそドラレコなどもそうだが、ただそれらは素材/資料化≒「記録」してゆく主体があいまいになってゆくものらしく、だからそれら「記録」は「何のため」に紐付いていないまま、ある種の「自然」として淡々と蓄積されてゆくものに。


 意図的かつ方法的に素材/資料化≒「記録」されてゆくものでなく、改めて「発見」されないと現実を認識してゆくための素材/資料にならないような存在の仕方をしている、でも確かに機械的に生み出され続けている、そんな「記録」の「自然」化。


 われわれ人間にとっての「現実」認識を組み立てている情報環境がどのように否応なく変わりつつあるのかについての目測目算をある程度持とうとしない限り、これまでの人文社会的な〈知〉がそのまま流れ作業のように連続して「役に立つ」ことはなくなりつつあるのかも知れん、な。

 うっかりと備忘録的にtweetにとりいそぎ書き込んでおく、ということをやるようになってから、自分がふと考えついたことを自分で振り返って改めて考える素材にすることは確かにしやすくなったし役にも立ってるんだけれども、同時にその考えついたり思いついたことをその時点でしつこく踏ん張りながら展開する、ということを以前よりしなくなった感じはする、おそらくトレードオフ的な意味あいとしても。じっくり腰落ち着けて、それこそ「おりる」身のありようを自覚しながらまずはその場で考えてみる、ということができなくなってきた面はあるらしい。

 この資料拡大の現在というお題についても、何度もこれまでも泡のように考えが浮かんでは、それをとりあえずのココロの棚に押し込めておいて、また別の時に引っ張り出してはあれこれ枝葉をつけてみるようなことをずっとやってきているような気がするのだが、まだそういう時期が熟してないのか、はたまた自分が怠惰で老化しつつあるのか、きっとどっちもある程度そうなんだろうが、何にせよすっきり納得ゆくような脈絡はこさえられていない。

 いっちょまえにものを考えるようなことをし始めるようになったのが、およそ80年代に入ったあたりから。ということは、いわゆる「80年安保」の真っ只中で、その後ニューアカだのポスモだののうわついたノリにも連なっていったような同時代の空気の中でそれなりに呼吸して生きていた、その「はじめの一歩」的な刷り込まれ方については、このトシになってもなお、いや、このトシになったからこそ改めて、自分が自分になってきた経緯をある程度俯瞰できるようになったらしい分、少しは距離を置きながら対象化することができるようになっているらしい。このお題にしても、そんな対象化ができてきただけ、うっかり早上がりに適当にもっともらしくまとめることができない程度には、割と大ネタに関わってくるものなんだろうと感じている。

 「現実」とは表象と意味の構成体である――いや、ガラにもなくそういうもの言いはここではやめとく。いずれことばと意味のからまりあったところでしかわれらニンゲン、確かな「現実」などというものはこさえられていないイキモノらしいのだから、そういう前提、認識の枠組みについての足場だけはとりあえず揺らがないように日々微調整してゆくことを続けてゆくしかないらしく。