「2ちゃんねる」(いまや「5ちゃんねる」となり、往時の面影すらあやういくらいの衰退ぶりだが)の全盛時というのは、概ね90年代末からゼロ年代にかけてになるのだろうか。としても、すでに20年も前のことだから「ふた昔」になる。
当時、はたちだった者も40代、30代だったら50代からアラカン界隈に足突っ込んでて不思議ないわけで、このあたりがその後、web介した新たなサービスであるSNSに流入、拡散していって、体感的にはおそらくTwitterにその「2ちゃんねる的なるもの」を最も素直に濃厚に受け継いだ層が集まっているのでは、と思う。*1
当時はおっかねえなと思っていた『2ちゃんねる掲示板』
— 羊飼われ (@hitujikaware) 2019年11月6日
トンチキな書き込みに対して反射で悪意をぶつけたり、マッハで炎上などはあまりされず、
『ググれカス』
『半年ROMってろ』とレスが返されていたのは、今にして思えば随分と優しい空間だったんだなあと、しみじみと思ってしまう。
『ググれカス』は『貴方のご質問は検索で分かる事です、まずはご自分でお調べ下さい』『半年ROMってろ』は『貴方の書き込みは掲示板のルールや空気をご存知ではないご様子、暫くは書き込みをせずに見学しては?』だった訳で、今の『失言一発大炎上で骨も残らない』から考えると随分と牧歌的。
あの時分「2ちゃんねる」には『やべえヤツ』が集まってきてると本当に思っておりましたが、『本当にやべえヤツ』はあの時分にはまだネットにコミットすら出来れなかったんだなあ、と最近思ったりする。
「やべえヤツ」というのは、身の丈生身の現実で異物として認知されるような、それこそヤンキーパリピウェーイ系な連中といった、生身のありように対応したイメージでのもの言いというよりも、それらも何となく下敷きにしながら、でもそれ以上にものの見方や考え方、世渡り世間についての認識や価値観・世界観といった、むしろ「内面」に関わってくる領域についての「やばさ」といったニュアンスが強くなっているような気がする。身の丈の現実ならある程度「つきあう」ことで、時間をかけてようやく多少見えてくるような、そういう意味で普段のつきあい、通りいっぺんの関係ではそうそう見えてこない部分。
それは個体としての「個人」それぞれの「個性」の違い、といったレベルだけではなく、それまでなら親友や恋人、夫婦などといったとりあえず最も親密な「関係」の上で初めてそこに可視化されてくるようなレベルの「内面」に関わる部分、たとえば思想や信仰、生きてゆく上で否応なく形成されてきてしまっているような意味での価値観や人生観といった「個人」の「内面」の最も微妙で奥深い部分、下手をすれば当の本人ですらそうそうはっきり自覚し認識し、言語化対象化していないような部分までもが、実にうっかりとあっけらかんと衆目環視の「場」に放り出されてしまう、という事態がwebを介して日常化してゆく環境があたりまえになってきたということでもあるらしい。そういう距離感が、「やばい」と感じる領域の暴露や可視化に対して日常化してきている。
だから、いまや「やべえヤツ」のその「やばい」の意味は、少し前までならブンガクやゲージュツ、信仰や信心といった位相でようやく受け皿があったような部分について、それら受け皿を全部すっ飛ばしていきなり目の前に現れてしまう、そういう「やばさ」も含めてのことであり、そしてそれはさらに思想や思索、広義の政治やガクモンなどに関わる局面においても「平等」に現実化してしまうようなものでもある。それらはかつて2ちゃんねるではそこまでうっかりと可視化されることもなかった分、「2ちゃんねるにもいなかったような」「やべえヤツ」が2ちゃんねるの、web介した場の外側にまだいっぱいひしめいていた、と思いがちで、そして最近ではそのような「やべえヤツ」が新たにTwitterなどに流入してきている、と感じるのかも知れない。
このような感じ方にもそれなりの〈リアル〉があるのは、スマホの爆発的普及などによるweb環境の日常化・通俗化によって、それまでweb環境にアクセスしなかった、できなかった層――それこそ高齢者や小学生などの若年層が、web環境へアクセスする上での経済的ハードルが下がったことによって新たな受益層として物理的に大量に流入してきたことが前提となってはいるだろうし、その実感も「やべえヤツ」の「やばさ」が結果的に裏打ちしてくれている。これまであまり見かけなかったような言動や反応をするやつらが増えてきたように感じる、こういうのは以前はいなかった――そんな脈絡で「やべえヤツ」の輪郭はくっきりと描き出されるようになってくるらしい。
だが、どうだろう。本当にそれだけだろうか。それまでもweb環境にアクセスしていたような、それこそ2ちゃんねる時代からの「古参」であっても、情報環境の変化に伴ってうっかりとそのような「やばい」領域を表出する、させられるようになっている、そういう側面「も」、果して現実には起こってきていないだろうか。
ありましたねー。
— 羊飼われ (@hitujikaware) 2019年11月6日
なんかあの時代がネットが無法であるが故に、なんか自治権みたいのがあった記憶があります。
少なくともゼロ年代までのネットは法の目の基本届かない文字通りのアンダーグラウンドな文化で、だからこその治外法権を維持するために不文律が沢山あり、それを守れないヤツは『厨房(中坊の様なガキ、実際にも中学生が多かった/今の~厨の語源)』など揶揄されてたんですよね。
そう考えると今のツイッターランドは『自治厨』が全く生息していない、アツアツの時期のゲハ板みたいなもんなのかもしれないですね。おお、地獄地獄。