ある戦争体験・メモ

 先日母と父と兄の墓参りに行ったとき、今のうちに聞いておこうと思い立ち、祖父の出征前後や玉音放送の日のことなどを訪ねた。深川に一家で大工の組を構えていた祖父は昭和18年か19年に海軍に召集。見送りは皇居前広場だったという。


 また5歳程度だった母が見送りの旗を落としてしまうと、祖母(後妻)から「縁起でもない」と叱られたと聞いた。祖父は横鎮に配属され、探照灯で夜空を照らしてという。当然横鎮への空襲も経験しており、復員後「あいつらにゃ高射砲の弾なんか全然届かなくてナァ」と語っていたという。


 玉音放送が行われると、高級将校たちは糧食やら金目の物やらを抱えてとっとと逃亡し、祖父が手に入れられたのは毛布だけだった。で、雑嚢に括り付けて横鎮を後にし、廃墟と化した東京を通って、祖母、叔父、母、叔母×2が疎開している福島の喜多方に向かったという。祖父の祖父母は会津の出身で、そちらの親戚に家族を疎開させていたのである。


 その親戚は名主かなんかだったらしく、広い敷地を持っており、その中にあった一軒家を借りていた。で、敗戦の日。当時ラジオは高価な品物で、周辺には祖母が深川から持ってきた一台しかなかったらしい。「15日の正午に畏くも天皇陛下のお言葉が発せられるので、皆、必ず心して聴くように」とのお触れが役場から出ており「あのお屋敷にはラジオがあるから行ってみるべ」と、周辺の住民が大勢集まったと、母は語った。さらに世話になっていた親戚をはじめ、大人たちは皆袴で正装していたという。母たち子供は「おまえらは庭で遊んでろ」と言われそうしていたが、放送が行われると大人たちは皆泣き始め「なに泣いてんだろな?」と、子供はみんなキョトンとしたという。あの小難しい終戦の勅諭を即座に理解できた大人がいたということだろう。ちなみに私の親友の方では「音が悪いし内容がよくわからず、とにかくこれからも戦争を頑張れって言ってるのでは?」と勘違いした大人が多かったという。


 復員して喜多方にやってきた祖父は、兄(私の大叔父)から「東京じゃ大工の手が足りないから戻ってこい」と誘われたが「東京じゃ食い物がないからいかん」と断り、家族を連れて宮下に向かった。戦争中中断されていたダム工事が再開となり、こちらでの「食事つき」という募集に応じたのだ。


 ダム工事なものだから、当然喜多方を上回る山と雪である。水道もガスもない。幼い母は毎日、さらに幼い腹違いの妹を連れ、もうひとりの生まれて間もない末の妹を背負い、桶を担いで水汲みを行い、さらに蒔き割りもしたという。「叔父さんはなにやってたのさ?」と尋ねると「兄ちゃんは何もしなかった」という答えが。そもそも叔父は後妻の祖母とは折り合いが悪く、後々も親戚付き合いも少なかった。そーゆー人間だったのである。そんなこんなで母の一家は宮下での工事が終わると次は長野、そしてさらに和歌山と転々としたという。


 ちなみに父方は茨木の古い農家なので、戦前戦中戦後と、これといって興味をそそられたエピソードはなかった。唯一東京大空襲の夜、少年だった父が東京方面の夜空が真っ赤になっているのを目撃した、くらいか。あとは戦国時代、ご先祖が落ち武者狩りをし、その戦果が母が嫁いだ時代(昭和30年)になっても、家の裏にあった洞穴の中に残っていたとか、落ち武者の腰を刺したためか、叔母、父、私をはじめ、足腰に障害を持つ者が少なくなく、また、あまり長生きしない、って程度。父の弟である叔父1号は50代で病死、その長男次男も30代。叔母は80直前、父は86歳で逝去。残った叔父2号は「兄貴はいちばん長生きだ。おれもあと少しで80歳だからそろそろかな」などという始末である。