モーリー的憂国ガイジン身ぶり

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 私、今日は寝て起きてずっとウクライナを見続け、考え続けてからまったく関係ない大型バラエティー番組の収録に行ったんです。そうしたら全然使ったことのない脳の部分を全開させ、それでもプロの芸人さんたちに追いつけず、テンパって真っ白になり、楽屋に戻った頃にはウクライナを完全に忘れてた。


 「Oblast」とか「humanitarian corridor」とか「戦術核・戦略核」みたいな用語しか目にしない2週間を経て、今夜あたり最大級の犠牲がウクライナで起こり、NATOはロシアとの直接の戦闘状態を忌避して「No-fly Zone」を設置できないんだ…と歴史を傍観・傍受するサイクルから一点、お笑いへ。


 アメリカのコメディー(日本のお笑いに相当)はリアルタイムでロシアのウクライナ侵略の本質に向き合い、難民が白人ならすぐさま支援するのに中東や北アフリカからの難民は排除してきた欧米のあり方を鋭くえぐります。


Trevor Noah Calls Out Media Racism with Ukraine War
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youtu.be/4IuE324VBBQ


 一方日本のお笑いには権力、資本、社会の主流にとって不都合がないユーモアに終始する傾向が見受けられ、大手事務所、大手メディア、大手スポンサーがスクラムを組み、さらに政治と癒着・結託する大政翼賛の構造が見受けられます。「お笑いと政治や社会問題は切り離してなんぼ」という価値観や美意識もあります。コメディアンが政治や社会に直接働きかけるようなパフォーマンスをすることは一般社会では煙たがられる傾向もあります。しかしコメディアン出身の大統領が命がけで国を侵略から守っているウクライナを見ると「お笑いウォッシュ」になかなか乗れないのです。スポーツウォッシュ同様。


 つまり考え方によっては日本のお笑い産業の主軸はどっちかというと中国やロシアの統制されたメディアの中で許容されている「笑い」と似た生態系の中でエンタメを提供しているようにも見える。もっとも、「日本の大物コメディアンが国家による国民の洗脳に積極的に加担している」と主張しているのではありません。そもそも日本のお笑いを職業としている人たちの技能は間近で見ると天才的です。自分が持っているスキルセットと惑星一個分ほど違い、尊敬しか覚えません。と同時にその表現形態は、政治や社会問題を議論するのとはまったく違う空間、いわば「野暮な話」を回避したテーマパーク空間に存在している。もしかすると江戸時代やその前にさかのぼって芸能が厳しく統制・抑圧されていた時代にお上や権力者をすれすれでからかう姿勢が暗号のように満載された形で表向きは当たり障りのない芸風が培われ、その様式が受け継がれて何世代も変異・進化をとげてきたのかもしれません。


 仮に日本のお笑いに欧米で一般的になっているウィットの概念をそのまま投影したとします。二言目に「安倍総理」「沖縄の基地」「原発」「差別」「外国人の権利」「多様性」が吹き出すコメディーなんてよほどうまくやらなければ聞きづらいポリコレの羅列に陥ってしまうでしょうし、そもそもお金を払って聞いてくれているお客さんを不愉快な気分にさせてどうするんだ、という視点も成り立ちます。一方で「見たくないもの」「危ないもの」への興味や好奇心をそそりたて、通常の会話や議論ではなかなか向き合えない感情を誘い出してカタルシスを提供するのが笑いの使命だとする考え方もあります。


  <さあ、あなたは日本式、欧米式、どっちで笑う?>


というのが両論併記の無難な逃げ方。しかし私は両論併記をしたくない。


 私の今日の発見は「絶望的なウクライナ戦争から目を背け、自分自身が日々の消費行動や無関心からこの大惨事を引き起こす当事者となってしまっていたことを忘れさせてくれるエンターテインメントは実に気持ち良いし、ものの30分でそこに埋没できたこと」でした。麻薬を一口だけ味わったような。
 

 日本の政治色がないウォッシュなエンタメもスポーツも見始めると止まらないほどおもしろい。瞬間瞬間が濃厚で、なんならコマーシャルも金がかかっていて目を離せない。瞬きすらしたくなくなる。ウルトラ・ファストフードというか大衆のアヘンというか、楽しくなっちゃう。


 NetflixのダークなSFコメディーもすごくいいし、作品性も高い。けどそれとも違う分厚い瞬間風速を日本のエンタメは与えてくれる。こんなおもしろいものが流れ続けているのにわざわざテレビを切ってNATOが手をこまねいている間にロシア軍がNovopskovで市民に発砲した瞬間の映像を見に行ってその動画が別件の動画を混入したガセではないことをBelling Catなどを巡回して調べに行って、結果やっぱり本当にウクライナ人が撃たれた映像であることを確認できたとしてその人を今いるところからどうやって助けたらいいんだという無力感に打ちひしがれるなんて、する人はいるんだろうか?


 これまでの日本の報道は政府が中国・ロシアに最大限に配慮・遠慮している姿勢に追随するように、すぐ近くにまで火の手が迫っていても「なんだか煙の匂いがしていますね」程度の婉曲表現に終始し、問題の本質を直視することを避けてきたのだと思います。お笑いとエンタメはそのメディアの構造に組み込まれた結果、はからずも「危機感を持たず、ささやかな幸せと安定を追いかける日常」の継続を補助する機関になったとも言えるのではないだろうか?平時にはそのシームレスなスクラムがむしろ心地良い。ワーキングプアになり行く人もコンビニのレジの画面に映るタレント、芸人、アイドルの皆さんにARのお友達のようなマイルド親近感を抱きつつ、日常が日常であることを確認できた。


 で、問題は有事になった時、あるいは有事になりゆく今なのですが、実は核兵器の使用が「絶対に起きないこと」ではなくなったんですね。数日前から。昨日は稼働中の原発に対してロシア軍が砲撃し、チェルノブイリ事故の何倍にも及ぶ原発災害が意図的に引き起こされるリスクを世界は味わっていたんです。その後メルトダウンは起きないと専門家が判断し、ロシア政府はウクライナ側が仕掛けた自作自演だとプロパガンダを流し、情報がごっちゃになっています。ただ、ファミチキM-1の間に「核」という用語がスクリーンを横切り、日常が壊れているんです。落としてしまったスマホの画面のようにひび割れがあちこちに徐々に広がり、気がついたら血だらけの金メダル、血だらけのLNG、血だらけのエブリシングがスマホ画面、テレビのブラウン管いっぱいに広がろうとしている。 核。


 個人的な意見ですが、私は核戦争は起きないほうがいいなって思っています。広島で育ち、父がABCCに勤務していたことや、親族が被爆した同級生や友達と一緒に暮らしていたことも大きな要因です。広島平和記念資料館アメリカの自分のバンドメンバーを連れて行ったこともあります。


 核のボタンを押せる独裁者が今、世界を脅している。本当は何段階かの暗号認証と二人の人間が同時に鍵を回すとかを経るのかもしれませんが、まあだいたいそんな感じ。プーチンが世界を人質にとって、どんな人道災害をともなっても自分のわがままを通そうとしているように見えます。巨人化した金正恩


 そのボタンを押すなんて馬鹿なことをいくら独裁者でもしないだろうと思う反面、偶発的なエスカレーションの可能性も排除できず、加えて追い詰められたプーチンが己の栄光のために自身の命と百万人単位の命を生贄にするシナリオが、数日前からくっきり想像できるようになりました。


 今、誰が私を笑わせてくれるのだろう?こんな世界にまだ希望がある。だからこそ絶望を見つめ、絶望する自分を笑ってもいい。できることはまだある。ウクライナの人々を直接、間接に助けるすべはある。知って、感じ取って、伝え合い、話し合って、できることからする。そう思わせてくれる笑いがほしい。


 もしも核戦争で死ぬのなら最後の一瞬までおしゃれに、愛して、芸術的に、助け合って、生にしっかりつかまっていたいな。いい音楽が聴きたいな。そして嘘がないのがいいな。最後の瞬間まで人間の中に強さは残っているし、自分も世界も変えられるのが真実だと思う。ウクライナを守ることは私達にできる。


 だから私はいろいろな麻薬の味を知り、自分の恐怖や苦痛からいっとき逃れる手段を持ちながらも、やはりウクライナがどうなっているのかを知るためにまたスクリーンの前に戻ってくるんだと思う。それは、私がSF映画のかっこいいヒーローであるから。あなたもそうかもしれません。

*1:この名作が彫られてから、ざっと20年以上たっていると思うのだが、未だにこれ一発で「批評」が大方片づいてしまうという、時空を超えて「中身のない」実例。