エロと仏教の関係・メモ

 他所の宗教は知らんが、仏教についてはセックスするなっていうのは悪いことだからじゃなくて面倒臭いことだからなんよね。エロいこと考えて悶々としてエロいことしようと励んでエロいこと出来なくてイライラするっていうのが面倒臭いことだからです。


 だから「じゃあ解消してあげましょう」という観音さんなり吉祥天なり辨天さんが出てくるわけ。


 仏教とエロについて少し書こうか。


 抑も仏教を開いた御釈迦様というのは、女面倒くせぇ!関わらないのが吉!って人だったので、最初仏教は男だけに向けられたもので、女の寝顔が酷かったから家出したとかいう奴を取り込んで教団を作ったわけです。元々王子様だったし、ビジュアルが良かったっぽいから、色々と面倒があったんでしょうね。


 例えば修行中、多分ビジュアルが良かったので御釈迦様はあるお金持ちに気に入られて、還俗してうちの娘を貰ってくれや、んでうちの家継げや、なんてグイグイこられます。それについて御釈迦様はお金持ちの年頃の御令嬢に対して「そんな糞袋触りたないわ」と拒絶します。酷い奴です。


 そういう人だから、如何に女と関わらなくて済むか、ということに苦心したことが戒律のラインナップからも察せられます。基本的に射精が戒められてるんですが、一応セーフのラインもあって、風にそよいで出るのはセーフ、服にこすれて出たのもセーフ、って具合。


 当時の弟子はアホなのか何なのか、自分でするのはセーフですよね?死体とするのはセーフですよね?自分の肛門に突っ込むのはセーフですよね?と御釈迦様に質問して、アカンに決まっとるやろ、となるわけです。不可抗力で出る分にはセーフですけど、意志を持って出すとアウトっていう線引き。


 んで女と関わらない為には、ということを考えているので、ムラムラするようなことも禁じられる。ニンニクとかニラとか食わない、というようなことね。ムラムラするから。元気がなけりゃあエロいことも考えません。


 ただ在家の信者にはそういうのを禁じていません。みだりにでなければ財テクや子作りを推奨しています。みだりに、っていうのがマズいわけで、エゲつい商売したり妾を沢山囲えば、そりゃあ面倒臭いことが増えます。煩悩というのは面倒臭いことというような意味です。


 弟子に女も弟子にしてやって下さいよー、とお願いされて一応女弟子も許可されてるんですが、女の方が戒律が多いのは、きっとホントに御釈迦様イヤだったんでしょうね。


 大乗仏教ってのはヒンドゥー化した仏教なわけですが、そうなった経緯は判然としないものの、まぁ普通に考えて、在家の信仰が拡張したからでしょうな。それに合わせた出家もいたんでしょう。


 昔のインド人にとっては神や精霊、餓鬼の類は居て当たり前の存在だったので、そういうものもどんどん仏弟子になります。そういうことにします。とはいえ在家弟子なので、神様は僧形ではなく、普通に暮らしている設定っぽい。その神様より強いとされる菩薩や明王が次々と生み出される。


 それで例えば観音様はもともと口髭生えたオッサンなんですけど、ガナという鬼神の類の王である暴れん坊の歓喜天を教化する為に女体化して、まぁ、その、抜いてさしあげるわけです。単に我慢させとくよりマシという判断なんですかね。きっと賢者モードにしてから仏法を説くんでしょう。


 『日本霊異記』に出てくる吉祥天像に射精しちゃった僧の話は、元々神様の像を造ることがなかった日本に仏像というカッコイイものが入ってきて、そのビジュアルにゾッコンになった日本人、ということがあるので、天女の像なんか見たらそうなるよね、っていう話だとは思いますが。


 まぁそれでも生身の女とイケナイことするよりマシ、ということかも知れない。


 信仰対象として祀ってある像が実はエロ対象、というのはよくあることで、うちの八臂辨天は恐いオバサンみたいな感じなんですけど、江ノ島の辨天さんなんかは色白の素っ裸で作ってあって、昔の人はあれでエロいこと考えてたんですよ。


 密教の経典なんかになると、あからさまに悟りの喜びはエクスタシーと書いてある。セックスの気持ちよさに擬えてるわけです。ほいでチベット歓喜仏みたいなのが出てくる。完全に五智如来が菩薩女としています。坐位です口吸ってます。


 まぁ悟りを開けばそれだけ気持ちいいのだから生身の女なんか要らんのだ、という解釈をするのが安全だと思いますが、兎も角、そういう具合で仏教というか、元々インド人はエロいので、インド人が考えたこととエロを切り離すことは不可能じゃないかと思います。


 そして二次元の存在に性的欲求を集めさせるってのは、案外仏教的なのではないか、というようなことも思います。


 そうそう、時に質素なのが仏教で、金が掛かるのはオカシイ、とインネンふっかけてくる人も居るんですが、平等院なんか見ると明らかなんですが、仏教は悟りの世界、浄土の世界が如何に素晴らしいかを皆に教える為に、七宝荘厳された浄土の光景を再現することを推奨してたりするんですよね。


 東南アジアだと仏像だって金箔貼ってキンキラキン、仏塔もその土台の石まで金箔貼ってキンキラキン、ということがありますが、あれは悟りの世界の素晴らしさをアピールする為に必要、という感じなんですよ。


 弘法大師も何かでビジュアルが大事みたいなこと書いてたと記憶しております。あと何が入口であっても最終的に悟らしちまえばいいんだ、的なことも。


 そういうわけでエロで惹きつけるってのもオッケー、ってことになるんですよね。なんせ歴史が長いんで、ありそうな批判は一通りシミュレーション済みで、既に言い訳が用意されてて、昨日生れたての門外漢が才能だけでケチつけられるようにはなっとらんと思います。