昨今の「原発」をめぐる言説については、いろんな意味で「戦後」パラダイム(苦笑)がすでにグズグズになったことを反映しているなあ、と思って見ています。
「原発」そのものが本質的に安全か危険か、という観点からだけでものを言いたがるのが、反対派賛成派共に顕著で、だからどちらもヘタしたら「海外ではこうなっている」的な能書きを都合の良いように補強しあう、というルーティンに陥ります。「海外」を「専門家」に置き換えても同じですね。
「原発」であれ新幹線であれ、はたまた「軍隊」であれ、それらを実際に動かすのがいまのニッポン人である、という重要な変数が忘れられている、というのが、気になっています。良くも悪くも。
「原発」大丈夫、説を今回、最もわかりやすく崩壊させたのは、かの東電以下、内閣その他の「エラい人たち」の身振りたたずまいでした。うわあ、こりゃ大丈夫じゃないわ、と誰の眼にも明らかになったわけで。
仮に、外国人に「原発」の管理運営を任せる、と仮定したらどうでしょうか。アメリカの専門家チームが責任もって運営する、とか。中国なら? フランスなら? ……同時代の思考の訓練としておもしろいものになると思っています。
つまり、かつての「お雇い外国人」ですね。あれだけ「攘夷」思想が強かった幕末でも明治初期でも、極東の僻地にやってくる外国人の質も必ずしも高いと言えなかった状況で、当時の日本人は「外国人」を重要な職務につけてつきあっていましたし、また、外国人の側もよく責務を果たしていたという例はたくさんあります。「使命」に対する「責任」、という部分が当時の欧米人の中でどのようなものだったのか、またそれらを発露させるような何ものか、が当時のこちら側にもまだ宿っていたのかも、です。
同じことは、今の政府にも言えそうです。もう総理大臣を「外国人」依頼する、ってのはどうでしょう。かつてのマッカーサーみたいなものですが。いずれにしても、「外国人」に国の運営をいっそ任せてしまう、という「仮定」は考えることのトレーニングとして必要でしょう。
つまり、ニッポン人が同胞の「エラい人」「選良」に対する信頼を最終的に失いつつある、そういう状況をまず、深く認識するべきでしょう。それはかつてもあったような「反権力」とか「反体制」の民話的なあらわれとも、「勝ち組」「カネ持ち」に対する常にあるやっかみや妬みの反映とも、いずれからみながらも、でももう少し新たな難儀が本質にあるように思います。
こいつ絶対にカラダ張らねえよな、という生身の気配。口先だけで最後はトンヅラするだろ、という雰囲気ありありなプレゼンス。右も左も上も下も、そういうニッポン人、が遍在しているという脱力感。もちろん自分自身も、というツッコミを入れながら、なのですが、そういう種類の絶望、詠嘆……何でもいいですがそういう気分が共通項、かと。
自衛隊に対する「信頼感」が今回異様なまでに高まったのも、そして米軍に対してさらに絶大にそれらが沸騰したのも、前提に、もうわれらニッポン人がニッポン人を信頼しなくなっていることが意識せざる気分として蔓延してしまっているから、だと思っています。
「あと30年もたってみるといい。
戦後の近代化そのものが、
じつは“ムラ”的遺制が“ムラ”を羞恥しながら創りあげた
壮大な“ムラ”の再生であったことに、人々はいやでも気づくであろう。
そして戦後近代主義等々、“ムラ”の内部に現れては消えていった数々の思想が、
その幻想のもち方の神話的歪みにおいて、
“古代史”の資料としての意味しかもたなくなるような時代を、
われわれは遠からず迎えるかもしれない。」
今から四半世紀ほど前、ニッポンがまだ「戦後」の内側にあった頃に、とある人が記した一節です。*2
「戦後」が歴史に組み込まれて終わってゆく過程が「失われた20年」だのと言われているだけで、そういう〈いま・ここ〉をわれわれは生きているという認識をどのように持てるかが、これから先、「未来を選択できる」主体にほんとになれるかどうかの重要な条件になると思っています。
とりいそぎ。妄言多謝。