焼肉屋、の原風景・メモ


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牛角なんかができる前は基本的に油で汚れた白衣の日本語が微妙に怪しいおっちゃんやおばはんがやってる肉の黒ずみを蛍光灯に赤いセロハン通して誤魔化しているようなのが焼肉屋だったから中年以上の子供の頃から行ってるは自慢にならんな。

飲み会の焼肉にご飯はアリかナシか論争でそれ以上いけないってなったのは、小さい時から親と焼肉を食べに行っていた人にとって焼肉屋は食事をするところであって酒のお供としての焼肉は後から出てきた概念、翻って焼肉にご飯を「理解できない」と言ってる人というのは大人なってやっと焼肉屋に文字数

まさに(´-ω-`)

「日本三文オペラ」などに生々しく描かれてたような、臓物系(のちのいわゆるホルモン、か)中心に何でもありに焼いて、タレまみれにしてガツガツ喰うのが原風景な印象。メシのおかず化したのは、店で提供されるようになり、行儀よさげになってからかと。

油ぽいテーブルの上をちょろちょろと走り回るチャバネG、もセットでしたわなあ。

その「油っぽい」というのも、それまでの本邦語彙での「油」の日常感覚の大方を占めていただろう植物性の系統の手ざわりとはまた明らかに違う「動物性油脂」、つまり grease 的な「脂」ですわなぁ……「ギトギト」的な形容を添えられるような。

「ぬらぬら」と「ギトギト」の間、そして違いについて。

盛岡がまさにそうでした。ホルモン焼く匂いが商店街に充満していたと。(朝鮮戦争期に生まれた母の言で)

昭和末期の子供時代にはもうオカズ化してました。エロカレンダーがトイレに貼ってあった、いろんな意味でワイルドな店でしたが。

札幌いるころは、ススキノの外れのホルモン屋通ってまして。蛍光灯の白っぽい灯りの下シンプルなガスコンロで焼いて食らうという甚だ殺風景なとこで。そのうち建て替えたらシャレオツビル無煙ロースターとなって途端に味が落ちたような気がしたものです。足も遠のいた

新大久保の方には金属のボウルにタレやら血やら分からない何かにまみれた臓物が入ったのが運ばれて来て七輪で焼いて食べる怪しい店がありましたね。マッコリも瓶に入ってなくて密造っぽいやつで。

戦前のことだけど、母親の生家にいたお手伝いさんが半島出身の人で子守りと職人さんへのまかない作りがメインの仕事だったらしい。何処からともなく入手してきた豚の臓物を料理する光景が特級呪物なみにエグかったそうで母親のトラウマになってます(未だに実家は焼肉禁止(笑))

タレまみれにしてから焼くんじゃないかな? 港湾労働者が多い町角には店頭で24時間ぐつぐつ煮えてる大鍋があってもつ煮というとそれが原風景でした、そこ育ちじゃないけどね。

昭和の50年代、同級生の家は焼き肉屋で、飯をごちそうになった時に「旨い旨い」と肉をおかずに飯三杯食ってたら何も言わずにキムチを追加してもらい、最後には「よく食べるいい子やね」と、アイスクリームをごちそうしてもらった記憶。

府中市在住だったし米倉斉加年CMの相乗効果で食べてましたね。

今やB級グルメの王?と化した西成の「やまき」のようなものが焼肉屋の原風景ラジよ


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