ひきこもり、について・メモ

自殺したい人々 (宝島SUGOI文庫)

自殺したい人々 (宝島SUGOI文庫)

 かつての別冊宝島のうち、文庫化されてたりするのがなにげにあったりするんだが、そのうちのひとつに、これはちとわけありだったこともあり、その後単行本に収録されないままだった某精神科医との対談が入っているのに気がついた。で、その中身が今の時点でも、というか今の時点だからこそ、なのか、何にせよいろいろ示唆的だったりする気がするので、そのセンセイの発言の部分を中心にいくつか抜粋して備忘録として。*1

「「ひきこもり」にしても親がカネ持ってるからだと思うんですよね。つくづく高度経済成長というのはとんでもない富の蓄積やりやがったなと痛感するんですが、未だに我々はその時期に貯えた富で喰って、それをさらに普遍的で抽象的喰い潰し続けている。」


「そうですよ、息子や娘がひとりくらいひきこもりでも親は困らない。豊かさが前提の病理ということは言えますね。第三世界で閉じこもってたら飢え死にしてしまいますからね。動けるんなら働け、って叩き出されちゃう。」


「なんか、ひきこもりって言われる例には自宅に寄生しているケース多いですね。単に親がかりでそれをまた親がほったらかしてるから可能なだけですよね。第一、ひとり暮らしでひきこもってたら日干しになる。」


「ひとりだったら喰うだけでなく洗濯も掃除もしなきゃならない。公共料金も払い込まなきゃならない。となるとどうしたって苦しいですよ。そういうめんどくさいことを全部どこかが肩代わりしている、だから引きこもっていられるんです。」


「結婚もそうなんですよね。若い子が結婚しないと言われてますけど、それもひきこもりと同じで、親と同居してて料理も洗濯も親が全部やってくれて家賃もいらない、親もそこそこカネあるから食費入れろなんて言わない、それどころかたまに便利に使ったりして、いたけりゃいたらくらいのこと言ってる。」


「本人は本人で稼ぎは全部趣味とかに使ってるわけで、そりゃ結婚する気になるわきゃないですよ。さすがに千二百兆円でしたっけか、国民貯蓄あるだけのことはあるなあ、と。その千二百兆円が危うくなってきたら少しはみんなシャンとするんじゃないですか。」


「喰うの喰わないのという問題でないから好き勝手言えてるんですよ。拒食症なんかも基本的に同じ構造なんですけどね。」


「日本以外の、そのボーダーラインの人格障害の本家本元のアメリカなんかじゃ、カネ持ってる白人中産階級だけじゃなく、たとえばカラードの貧困層なんかにもそういう症例は出るものなんですか?」


「貧しい層でも出ますね。前提が社会構造的なものですから。もっと貧しさがひどい国の貧しさじゃないですから。アメリカの貧困層も上手に生活保護もらうと僕らより大きな家に住んでクルマもテレビも2台あってというのが人間としての最低生活だ、ということになりますからね。」


「治る治らないの問題じゃなくてつきあい続けるしかないとすると、これはもう医者の守備範囲じゃないじゃないですか。第一、ひとりの人間がそんなに多くの人間と誠実につきあい続けるなんて、宗教でもない限りとてもじゃないけどできませんよね。」


「そうですねえ、ボーダーラインの治療をやって有名になっちゃうと、その医者のところにばかり患者が集まってあふれるなんてこともあるんですよね。並外れた体力と気力と忍耐力がないと医者はやってけないですよ。」


「ただ、病気ってのはおもしろいことにほっといてもよくなることがあるんですよ、時代と共に。たとえば分裂病なんてのは30年前までは大変な病気だったんだけど、今はすごく軽い病気になっちゃったわけですね。」


「昔は絵に描いたような妄想を抱いた患者がいたんですが、今はそんなのまずいない。よく聞いてみると、これは分裂病かなあ、って人は居ますけど。ボーダーラインもいきなり手首切りつけるようなのは少なくて、よく話を聞くと、ああ、こりゃボーダーラインかも、な程度が増えてきてます。」


「やだなあ、それって通院程度ですむような薄味のキ●●イ、ライトな●チガ●が膨大に増えてきたってことじゃないですか。」


「まあ、そういうことですかね。今は彼らが暮らしやすい社会になったせいか、僕みたいな医者でもつきあえるようになってきているみたいですね。」


「隣の人格障害、ですか。労務管理とかでも現実的な問題になってきているんじゃないですか。そっちが多数派になってきて、そういう状況なんだということで理屈抜きにそれ前提で社会を動かしてゆく手立てを考えないとまずい時代になってきている。」


「人間、完璧にまわりに迷惑かけないで死ぬことはできないし、生きてゆくこと事態、まわりに迷惑かけることでもあるんだ、と。社会は関係なんだ、生きることは関係の中でうまくやってくことなんだ、ということを思い知らせないとダメでしょうね。」


「そのためにはまわりから、ほんとに具体的に迷惑なんだ、ということを表明して伝えなきゃならないんでしょうが、ところが言う側が頭が古くてついつい古い物語に依拠して「君が死ぬとみんなが悲しむよ」とか言っちゃうわけですよ。そうすると宮台さんみたいなのに言いくるめられちゃう(苦笑)」


「おまえら古いよ、オヤジだよ、って言われると、えっ、とたじろいじゃう。あの人、人を怒らせるのうまいですからね、「あんた女何人知ってる?俺、200人」とか言われるとジイさんたちみんなカーッとして我を失っちゃう。」


「そんなもん、たかがテレクラで知り合った人格障害ばっかじゃねえか、って言ってやりゃいいじゃないですか。助教授デビューのボンボンが偉そうにぬかすんじゃねぇ、って。」


「でも、若い子たちは「私たちの感覚をうまく言ってくれてる」って思うんですよ。スッキリするみたいですよ。」


援助交際なんかでも「自分で決めてやってるからいいんだ」ってよく言いますね。でもその「自分」は肉体持った自分じゃなくて観念としての自分なんですね。もうオールマイティで何でもできてという自分。他人は決して関わらない。それが好き勝手やってるんだからこれはもう誰も反対できませんよ。」


「「自己決定」ってやつですか。「わがまま」ってちゃんと言いやがれっての。「わかってやってる」って言い訳もすごく多いですよね。わかってるからそれがなんなんだよ、って言うしかないんですが。」


「信用の前提にある常識をみんな嫌うようになった。常識ってのはお互いに共通したよい考えってことですが、そんなものみんなニセモノだよ、作られたものだよ、共通するものなんてないんだよ、ってことになってくる。」


「唯一残るのはテクニカルなものしかない、眼に見えるものなら信用できるからそこにだけアイデンティティがある。ブランドものでも何でもやたら身につけたがるのもそのへんと関係あるんだと思いますね。」


「18世紀的資本主義ってのは、やたら世界に出ていって珍しいものかっぱらってくることだった。これが19世紀になってくるとモノ、人、土地がみんな投入財として等価に鳴ってくる。一時期言われた日本的経営なんてのは実はそういう19世紀的資本主義に対するある種土着的抵抗だった面があるわけですよ。」


「社員は家族です、的考え方はその典型で、あれが資本主義的な流れに対する歯止めになってたところがあったし、実際その方が儲かってたんですが、その後景気が悪くなって日本的経営に対する信頼性も崩れてきた。」


「そういう資本主義的な、全てを等価に見て操作的に扱えるという発想に対して、日本では土着的な抵抗の感覚がついこの間まで、少なくともバブルの頃まではあったと思うんですが、それ以降、急速にそれもなくなっていった。」


「だから、今やリストラもそのまま人のクビを切ることみたいな受け取られてる。解雇することは文字通り「クビを切る」という感覚がかつての日本の経営者にはあったと思うんですが、今は単にひとつのコマを捨てるに過ぎないようになってきている。」


「そういう大きな社会の変化、歴史の流れと「死んでもいいや」と思う虚無的な人たちが現われてきたこととは、無関係ではないと思います。」


「ただ、こういう社会になってくると、意外にボーダーラインの人たちは適応型かも知れないという側面もあるんですね。」


「学校でもそうですが、本人が教養を高めて自分の人格を磨くとかより、本人の人生がどうグレードアップされるかが重視される。内面は関係ないわけですよ。現実に世の中がそれを要求しているわけですし。資格マニアやブランド好きなんか、今の社会のありように案外親和性があると思います。」

*1:どうして単行本に収録されなかったのか、先方が丁重に断ってきたからと記憶しているのだが、でもこちらの文庫版には収録してあるということは、ムック全体の文庫化には再録許可が出たということなのか。事情はようわからんけれども、いまさらどうでもいいのでとりあえずスルー。