日本好きガイジンは現実逃避?・メモ

 海外の外国人のOTAKU(アニメ、J-POP等のマニア)は、ファンタジーの世界にいると思ってた。日本について質問され、私が日本の暗い政治や社会の現状の話をすると、耳を閉ざす。外国人実習生のニュースにも興味なし。アニメやカワイイグッズやアイドルやB級グルメの話しかしないnews.yahoo.co.jp/byline/abumias…


 日本のアニメとかのマニア(OTAKU)の外国人はファンタジーのワールドに生きてる感じ。日本の暗い現実は見ないしききたくもないという人がかなり多いと思った。日本人の生活は苦しくても、欧米人達には物価が超安い国だし。たぶん彼らにとっては日本はディズニーランドみたいな感じなんだな、と思ってた


 中南米にいた時に何度か大学の日本語クラス等に招かれ日本について話した事があるが。日本の社会とか歴史とかについては興味なし。なぜ日本語に興味あるのかと全員にきいみてたら大半が「アニメ、コスプレが好き」。ファンタジーワールドにいるから、日本の現実の話をされるとしらんぷりする子もいる。

 「文化」という術語で指し示される領域が、「社会」や「歴史」との関係でそれなりの絵図の中に位置づけられていて、それら全体の見取り図を概ね参照枠として持った上で眼前の個々の「文化」という現われについて考える、という一定の道筋が認められていた時期はもう大方過去のものになっているらしいことは、本邦日本語環境での人文系のありようを傍観していても身にしみつつあるところではあるけれども、それは海の向こう、海外においてもざっくり同じような兆候が現われているということらしく。

 「文化」が「社会」や「歴史」、もっと言えばそれらとからむ「経済」なり「政治」などとの関係などまで含めて、ほぼ初手から「関係ないもの」として存在するようになっているらしい現在。身のまわりのモノやコト、できごとやイベントの類全てが「文化」というくくり方で包摂し得る表象であるということは基本的に変わらないのだとしても、それらの個々に興味や関心を持ち、好奇心を抱いて接近しようとする、その際のモティベーションといった部分からもうその背後の「社会」や「歴史」の類との関係を切断されているらしく。

 それはもう少し別の角度から言うならば、そのような興味関心好奇心を抱いてしまう「自分」という存在自身についての自省、それこそ「社会」や「歴史」のマトリクスの裡に否応なく存在している〈いま・ここ〉での自分自身についての認識すら稀薄になっているのが当たり前、ということでもあるのだろう。そのような「自分」と「文化」との強固な、そしてその他の脈絡からも疎外されているらしい分、集中的で収斂的な密度の濃さを伴った、ある「関係」のありよう。かつてなら、たとえば比較文化とか呼ばれていたような、あるいはその後でも文化人類学とかそういうガクモン領域と共に語られることになっていたそれら「文化」の枠組み自体がもう、認識の主体である「自分」のありようと共にそれまでと違う形のものになってきつつある現状。

 眼前にある「文化」とは、それがアニメであれ何であれ、個別具体の現われとしては圧倒的に〈いま・ここ〉でしかなく、そしてそれはそのような〈いま・ここ〉の内側にあるという意味において、それらに興味関心を抱いているこの「自分」とも全く等価であり、同じ存在の仕方をしている、言わばそのような親しさ近しさ親密さがあらかじめ約束された上での「好き」であり「魅力的」であり「興味がある」ものになっている、ということなのか。

 「わかる」ために客体として見ようとする、対象化して認識する、といった手続き自体がもう必要のないものであり、むしろ「好き」のためには邪魔なものにしかなっていない可能性。ここで「ファンタジーワールド」と言われているものもまた、そのような意味で、少し前までの人文学的な脈絡での術語としての「ファンタジー」とは別の内実をはらんだものと考えていいのだろう。それとの対比で置かれている「現実」というもの言いとの関係も、また。*1

*1:「現実」と「虚構」、「リアル」と「ヴァーチャル」といった例のありふれた二分法の図式がどれだけ〈いま・ここ〉の現実を認識しようとする時に邪魔になっているかということは、これまでも縷々触れてきているけれども、ここでもまた「ファンタジー」と「現実」という二分法でそれは悪さを仕掛けてくる。こちら側が「現実」の話のつもりで語りかけようとするその日本の「社会」や「歴史」「文化」などについても、おそらく「ファンタジー」と同じような水準で、でもその彼ら彼女らが現状興味関心を抱いているそれとは別の「興味関心好奇心を抱けない」、だからそれら興味関心を抱く「ファンタジー」と地続きの水準にある「自分」とはあらかじめ「関係ない」ものとしてしか認識されていないように思える。このへんは昨今の本邦眼前の若い衆学生などとも共通している感覚であり、その上での現実認識のありようのように思える。いずれにしても要継続検討案件ではあり。