戦争の話を少し

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 戦争の話を少し。


 大正一桁生まれの母方の亡き祖父は、出征せずに終戦を迎えた。年齢、跡継ぎ、僧侶で教師というのが理由だと思う。でも弟二人は戦争に行って、末の弟は南方で帰らぬ人となった。
 祖父は何も語らなかったが、毎年、原爆の日終戦記念日だけは生還したすぐ下の弟と静かに過ごしていた。


 祖父の弟Aおじさんは明るい人だった。

「なんで戦争行ったかって?誰も行きたくなかったけど、赤紙来たらしゃ〜ない。毎日上官に殴られ、蹴られ。気づいたら中国でゲリラと戦っとったんや。人なんか殺したくない。でもあっちも撃ってくる。逃げても殺される。上の人らは大層な事考えてたんかしらんけどわしらには迷惑な話や。…東北のヤツラや九州、土佐あたりのやつらはすごかった。わしら大阪のあほぼんは何してもかなわん。男らしくて、強くてな。敵襲あった時なんか『ここは任せて、お前らにげろ!』言うてな。わしら大阪は『ほな、おおきに!』で、すたこらさっさや。エエやつ、すごいやつから死んでいった。あいつらがおったら、今の日本はもっともっとすごい国になっとった…ほんまやで』

 そう、何度も聞かされた。

 『侵略戦争言われても、実際戦っとったわしらは、命令通り目的地まで行軍し、ゲリラと会敵したら戦えと言われただけで…悪いけど、実感がないんや。でもな、奥地に進むと補給がなくなるから現地で調達するんや。そこらの畑から色々もらう。わしらはみんな腹減ってるから、そら必死や。でも今から思うと、それは中国の人らの土地で誰かが一生懸命育てたもんやったんやな。それを鉄砲持った日本の兵隊が取っていったら、腹も立つはずや。


 それがな、おかしい事、間違ったことやとわからん時点で…みんな狂っとるんや。戦争はほんまおっかない。腹減るんが一番あかん。イライラして、わけわからんようなる。あの頃は日本中みんな腹すいてたんや。ピクトちゃん、おぼえといてな…戦争はほんまにあかんねん。腹いっぱい食べて笑うんが一番や』


『末弟Bが陸軍士官学校に行ったんは、貧乏やからや。ほんまは帝大に行って物理を勉強したかったけど、大学生も戦争に取られ始めてたからな。飯が食えて、勉強できるとこ選んだだけや。メガネかけて本ばっかり読んで兄弟で一番大人しかったのになぁ、隊長さんやて…でも死んでしもたら何もならん』


『ヒョロヒョロの眼鏡かけた兄ちゃんが隊長やって言われても、元部下の人らは馬鹿にしてたらしい。でも砲兵部隊で○m先の敵なんか見えへんのに、放射角をさっと言うんやと。そしたら敵さんのおるとこに落ちて…頭の出来が違うんやってビックリしたらしいわ。たまにこっそり上官用の食事を部下にあげたりもしたらしい。『ナイショやで、はよ食べて戻り』っていうて。戦死した部下にお経あげたり…優しい隊長さんやったって。部隊はほぼ壊滅したらしいけど、わざわざ戦後に挨拶来てくれる人がおってな…まだ20代半ばで死んで、ホネもない。死んだらあかん、死んだらしまいや…』

 祖父は何も語らない人だったけど、死後、金庫の奥から古い写真が出てきた。数十人のこども達と真ん中に祖父が座る集合写真。裏には全員の名前と昭和11年5年○組と祖父の字で書いてある。母に聞くと、祖父が教師になってはじめて担任したクラスの写真らしい。そのうち半分くらいの名前に赤い印があった


 何かと聞くと、戦死または空襲で亡くなった人の目印らしい。ただ、消息不明のいるからわかる人だけ。祖父自身、自分の教育のせいで亡くなった子もいたのではないか。国からの命令とはいえ、子供達にはお国のためにと教えてきた。幸せになるための教育をしたかったと後悔していたそう。知らなかった。


 祖母は大阪市内の生まれで、女学校時代は心ブラ(心斎橋をぶらぶら)できてたとか。空襲で家を失い、親兄弟もかなり亡くなった。終戦近くになると女学校からほうへい工場へ動員されたらしい。「とれす部隊やったけど、そのうち仕事がなくなって畑つくってた」それだけ教えてくれた。


 ただ、戦後、絶対に森ノ宮あたりには行かなかった。工場のあった場所で…かなりひどい空襲にあったから。思い出したくない。地獄だったと。私達は学生だから優先的に逃してもらえた。逃げても死んだ人もいる。いつもお腹すいてた。ほんまに、戦争だけはあかんよ、ピクトちゃん。


 お茶碗にご飯粒ひとつでも残すと普段は穏やかなのに激怒して「お百姓さんにあやまれ!お米のありがたさがわからんのか!」と言っていた祖母。


 みんな亡くなってしまったけど、ほんまに忘れてはいけないと思う。
長々とすみませんでした。


 たくさんのRT♥リプライ、ありがとうございます。全てにお返事できず、すみません。「世界やアメリカについて知らなかったから戦争をはじめた。無知が一番怖い」と言っていた高齢者の方がいました。戦争について、今の日本について、私達の祖先について考えてながらお盆の仏迎えをしたいと思います。