サイゼリヤ問答、やっぱり的外れな「貧しさ」という言葉の用法に問題があると思う。
— 中村甄ノ丞あるある早くいいたい (@ms06r1a) 2022年7月7日
だってバブルの頃は家族でデニーズに行くのが豊さやったんやで。どう考えてもこっちの方が貧しいやん。
サイゼリヤ問答、やっぱり的外れな「貧しさ」という言葉の用法に問題があると思う。だってバブルの頃は家族でデニーズに行くのが豊さやったんやで。どう考えてもこっちの方が貧しいやん。
あとあの頃は高級ラーメンの作り方が分からなくてタラバガニそのまま乗せたり金箔乗せたりしてたんだよ。寿司もネタがシャリに対して五十倍くらいの大きさがあったり。
そういうので育った人等のサイゼリヤdisですやん。滑稽ですやん。
よく引き合いに出される「サイゼリヤ"で"喜ぶ彼女」の"で"にある含意も読み取れてないしね。そういうのが「読解力がない人らに燃やされてる」とか云うの、笑うしかないでしょう。
この話、マジで歴史の話としてしないと通じてない人がいるようなので、歴史として云ってみる。
デニーズ、サイゼリヤを含むファミリーレストランってのが出来はじめたのが1970年代のことで、その頃から1990年代の中頃くらいまでは家族連れがハレの日的な時に行く場所だったのよ。今みたいに気易くいくようなところではなかったし、これを「貧しさ」と云われるようなことは決してなかった。
それ以前はデパートの食堂がそれに近い場所で、だからサザエさんとマスオさんのお見合いもデパートの地下の食堂で行われた。今だったらホテルの1階にある喫茶店とかでやるようなことを、デパートの食堂でしてたの。今のフードコートより随分地位が高かったの。
抑も外食という行為それ自体が非日常的で地位が高かった。出前なんかもそうだったな。ドライブインの食事なんかも特別なことだった。
それが、皆の生活水準が上がって、出前も、デパートの食堂も、ファミリーレストランも、相対的に地位が下がったのよ。ファミリーレストランなんかは、品質もバリエーションも上がり続けてるのに、非日常ではなく、日常になって、普通に行くようになった。
今、とっておきの食事をファミリーレストランにしに行くってのは、貧困呼ばわりされるじゃないですか。バブル期にとっておきで食ってた料理よりも上等のものが出てくるのに(昔と違って厨房で一から作るようになってたりするのに!)。
我々が豊かになってしまったことで、相対的に地位が下がり、非日常から日常に落ち着いてしまって、今顧みると随分とショボいもので喜んでたんだな、というバブル期のショボいものに大枚叩いてた頃の話をしていたわけです。
PCエンジンやメガドライブのグラフィックを当時「写真みたいや!」と喜んでいた奴が「Switchのグラフィックがショボい」とか、笑わせんなよ、という話なんである。
だいたいバブルの頃って日本中にお金はあっても買うものがなかったのよ。それでボジョレーヌーボーを急いで飲んだり音が鳴ったら踊る花やジュースの缶の玩具をいい大人が買って部屋に並べてたの。足が生えた電話機とか。
そういえばガッチャマンで白鳥のジュンがデパートだったかで催された「外国の靴が貰えるかも」ってイベントに迂闊に参加した為にギャラクターに科学忍者隊の変身システムの秘密を盗まれて全員戦闘中に変身を解除されて困るってエピソードがあったな。
あの頃のデパートと「外国」の地位の高さよ。
マクドナルドも仕方なく食うようなものになってしまったが、昔は子供の誕生日に行くようなところだった。
ああいうのの地位が極端に下がったのはバブルの後半頃かなぁ。手前の感覚だと89年頃だが、これは地域によって差があるだろうな。今でも高い地位を保っている土地もあるだろうし。
ファミリーレストランなどの地位が下がったからか、それが原因で下がったのか、そういうのを特別視しなくなって食うようになったのが、タラバガニ乗せたラーメンだったり、無闇にネタがデカい寿司だったりしたんだから、ホントにあの頃って、値打ちがない時代だったなぁ、と。
価値あるものを無駄にすることが豊かさだと勘違いしてた時代だったと思う。
何故かケンタッキーだけがクリスマスに食う特別なものという地位を今でも保っている。実はターキーがそんな望んで食うほど旨いわけでもないものだ、っていうのはあるかも知れない。