「まともな企業は相手にしてくれず、『それでも』と受け入れてくれたのが玩具業界でした。今でこそオモチャ会社は就活学生の人気企業になっていますが、玩具メーカーは1年の売り上げの半分を12月と1月に頼る季節商売で、当時はオモチャを反対にした“チャモ屋”という揶揄の言葉もあったほど」
— 藝能現代 GEINOH*GENDAI (@geinohgendai) June 9, 2019
「粗悪品を売っているようなイメージがあったのです。ですから、大学に募集をかけても、学生が集まらなかった。実際、私が1970年にトミーに入社した時も、同期30人のうち28人は集団就職の中卒生、大卒が私1人で、もう1人は経理担当の高卒の女性でした」
「私だけでなく、学生運動で就職に苦労している仲間は大勢いました。そこで全学連のメンバーをトミーやバンダイ、エポックなどの企業に紹介していた。全部で600人くらいは橋渡ししたでしょう。もちろん、大卒人材が欲しい玩具メーカーも渡りに船でした」
「そうして、本来であれば電機メーカーに就職していたはずの同志社大などの優秀な理工系の学生たちが、任天堂などに採用されていきました。その彼らがやがてゲーム&ウオッチやファミリーコンピュータの開発に携わっていくのです」
企業を紹介する際、高須さんには必ず言う口説き文句があったという。「顔を合わせ、『もう革命はいいじゃないか。今後は女性と子供たちのために働こう』とささやくのです。
「元来、国の将来を憂う気持ちの強い人たちですから、ほとんどの方が納得してくれました。結果的に学生運動がなければ、日本のオモチャ企業はこれほど世界で隆盛していなかったかもしれません」
「トヨタの『コロナマークⅡ』、日産の『フェアレディZ』など本物の自動車を小さくして、そのままの名称で売るわけですから、本来であればメーカーに意匠権料を支払わなくてはいけません。今はどうか知りませんが、私の頃はロイヤルティーは発生していませんでした」
「というのも、自動車メーカーは労働組合が強いでしょ。その人たちに『子供たちのためです』と話すと、将来のユーザーへの宣伝だといってタダにしてくれた。同様にプラレールも新幹線などのモデルを作っていますが、これも旧動労の組合に交渉してタダにしてもらっていました」
「UNOを売るためには、まずルールを知ってもらわなければなりません。そこで各大学を回って学生さんたちに頼み、UNO大会を開催してもらったのです。このおかげで認知度は高まり、さらにUNOの協会を自らつくって初代会長に就任しました」
「ところが、1980年に任天堂が『ゲーム&ウオッチ』という携帯型液晶ゲームを発売しました。その衝撃は今も忘れられません。これを機に、おもちゃは家族全員で遊ぶものから、個人で遊ぶものへと変化していった。そもそも、根っからのアナログ人間の私には、電子ゲームという発想自体がありません」
「あのゲーム&ウオッチを見て、『もうこの業界は無理かな……』と大きな敗北感を味わったのです。結果的にUNOが私のサラリーマンとしての最後の仕事となりました」
「大学を5年で卒業し、確か初任給は3万円くらいでした。それが毎年、倍々に増えていって、最後の頃は2500万円ももらっていました。当時としてはかなり恵まれていて、左ハンドルのBMW518をドイツから並行輸入して乗っていたものです」