アニメや特撮は「卒業」するもの

 「アニメや特撮は卒業するもの」は昭和後期の同世代の若者の多数がそう信じていたというのは、記憶にとどめておきたいところであります。


 大人たちが「えっお前マンガみているの?」というのは何も気にならなかったが、同じ中学生や高校生に「いつまでアニメとかみてるんだ? キショ。」といわれるのはちょっと来るものがあった。


 一方で、「孤塁を守る」という感じも少しあったのはたしかである。このあたりの屈折が今と違う。


 「アニメとか特撮とか、幼児じゃあるまいし」という感覚は、それらこそが本邦コンテンツ産業を支える稼ぎ手になった現在では、形を変えて、特定の「正しい」作品やその作り手は素晴らしいが後はくだらない、という論調に残っていると思われる。稼いでくれれば褒めるが、稼げないものはやはり駄目だと。


 「いいものはいいね、悪いものはダメだけどね」は何も言っていないのと同じだし、結局はそれを決めるのは儂だ、と威張っているだけなのだが。


 ちなみに昔のアニメ特撮だって、スタージョンの法則は当てはまるので、懐かしがるのはいいが、無闇に褒めるのは禁物である。


 リメイクされる作品のアイディアは昭和のもの、リファインされた表現技術は平成令和、というあたりが、第1~1.5世代オタクがアニメのなにに熱狂していたかの一面を説明してくれるように思える。


 驚くべきことだが、昭和末期から平成初期にもう「昔の特撮は素晴らしいが、現在のは全然ダメ!」というオタクはいたし、今も実はいる。特撮の場合は円谷英二というファクターがあるからあながち妄言でもないような気がするが、アニメもそうだと言っていたような・・・


 技術的に予算・時間的にある時期以降のとくにテレビアニメが「粗製乱造」に陥ったのは事実であり、それを批判する論調は底流としてあった(今もある)が、7-80年代オタクは、その中で一部の作り手が苦し紛れに打ったアイディアの飛躍や冒険を「俺たちのもの」として愛してしまったのでしょう。


 この場合の「俺」は男女問わない一人称、というところも大事。