広告とテキストの関係・メモ

 テキストが増えるとダサい印象が増す感覚ってどこからくるんだろう。知覚的な脳の情報処理のストレスからなのか、文化的なものなのか。日本語圏外でも同様の感覚ってあるのかな。

 明治ザ・チョコレートのパッケージが徐々に市場に飲み込まれていっているの、やるせない気持ち

 こういった嗜好品の場合、直感で判断したいというのが潜在意識にあるのかもしれない。逆で言うと、論理的に判断したくないというか。所詮嗜好品なので、論理考察に脳のリソースを使いたくないのかもしれない。


 オシャレを装うときに、日本語でなくアルファベットを使いがちなのも、理解よりも、いや、むしろ理解しなくていいから、直感的に判断してくれ、という意匠になっているからかもしれない。


 「理解をしなくていいから」という意図が表れるのは、ものを見たり判断するときに、少し意識的になった方がいいかもなあ。職業柄、「理解可能」に強く引っ張られてしまうので、この「理解不可能でヨシ」の裏を読めるようになりたい。


 でもこういうのも、結局は提供側の意図とニーズのギャップがあると、期待はずれなわけで、以前ローソンのプライベートブランドの件もあるし、今回のチョコレートのパッケージは反応を見るにその逆パターンだったわけだ。


 なんでそれぞれ真逆の現象が起きてるんだろうか。


 ローソンの場合、異なる商品のデザインが似すぎて(抽象化にしすぎた)判別不可能の域を超えてしまったのは言うまでもなく、さらに生活必需品になっている商品もあったから困る人が多かったんだと思う。


 牛乳とオレンジジュースは直感的に選ばない。


 一方、チョコレートの方は、戦略的に「パッケージの意匠を売った」と言っても過言ではなく、極論中のフレーバーはどうでもよくて、あの箱を買うことにニーズがあったわけだ。


 明治がどういった意図でパッケージを刷新したのかはわからないけど、おそらくは色んな外的要因によって戦略を変更せざるを得なかったんだと思う。結果的にニーズとのギャップが生まれてしまってるわけだけど。


 狙ってズラしたのか、果たして。

 情報を伝えることが大切なポスターやフライヤーでは文字込みできちんとデザインされたものは多いです。単純に多くの要素をどうかっこよく見せるか?までちゃんとデザインされたかどうかの差だと感じます。逆に文字がなくてもダサいものはダサい(ただ要素が少ないのでアラが出にくい)かもしれません。

 テキスト量とは少しずれますが、ブランドが自分を褒めるのはそもそもダサいと広告学校で習いました。それもある気がしました

 良くも悪くも言葉は限定的なので、説明を足せば足すほど限定的になるのはイコール「ダサい」という感覚になるのかもとか思いました

 「広告・宣伝」という要素(だか何だか)が、日常の生活世界に浸透していった過程が厳然としてあるらしいこと。そして、その過程で果してわれわれの現実認識のありようが、どのように変えられていったのか、それがおそらく少なくともざっくり今世紀このかた、大衆社会と呼びならわされてきたような社会の内実の変化に伴う人心の有為転変を確かな連続性の裡に把握しようとする際、予想以上に重要な、けれども未だはっきりとその輪郭をあらわにされていない問いになっていること。

 そのような大風呂敷な問いの前で、ここで示されたような一連のTweetは、考えるための足場をさまざまに引き出してくれるものになっている。

 「テキスト」つまりここでは文字のことだろうが、その文字が「論理的」な認識に、そしてそれに対して「直感的」な認識として、おそらく非-文字という意味で視覚的、ビジュアル的な表象が置かれているらしい。さらに、「理解」という言葉がその前者の文字と「論理的」と紐付けられてもいるようだ。そのような「論理的」な「理解」は、しかしここであげられているような商品のパッケージのデザインにおいては、どうも「ダサい」とネガティヴな印象につながるような気がするのだが、さて、それはどうしてなのだろう――ざっとこのような筋道で、このつぶやき手は最近マイナーチェンジされたらしい明治製菓のチョコレートのパッケージを示し、以前のデザインの「オシャレな」洗練と比べた場合の違和感を「ダサい」と表明しながら、じゃあその根拠っていったいどこにあるんだろう、と自問自答気味に続ける。

 以前のデザインには、文字のテキストによって喚起されてくる「理解」の度合いが薄く、その意味でフラットに映像的とでもいうようなものになっていて、だから「論理的」にではなく「直感的」に受け止めることができた。そのように「直感的」に受け止めることを要求してくるようなデザインというのがあるのかもしれない。それは「理解」することを要求しない、まさに「直感的」に瞬間の何ものかを一発で判断する、そのような態度を求めてくるという意味で、なるほど非-文字な映像的表象の特徴でもあるのだろう。

 そこでは、文字もまた、「意味」の媒体として「理解」に奉仕するものでなく、まさに見てくれとして、ビジュアルとしての水準で埋め込まれているので、全体のその意匠において突出して前景化してくるような存在の仕方をさせられていない。

 けれども――と、そこでこのつぶやき手は立ち止まる。商品としての役割の枠内で決定される表現としてのこれらグラフィック・デザインとして、そのような「直感的」な受け止め方を「狙って」しかけられているものかどうか、それを表現として創り出した側の意図というのは実はわからないじゃないか、と。

 「以前ローソンのプライベートブランドの件」というのは、コンビニのローソンが自前で展開している一連のハウスブランド的な商品のデザインを一斉に変更、パック飲料であれば牛乳もオレンジジュースも一見しただけではその中身が何であるか、ちょっと判別しにくいようなデザインになった新たな商品たちが店頭に一斉に並ぶようになり、世間一般の消費者感覚から違和感やを表明されてちょっとした騒動になったことをさしている。

 「牛乳とオレンジジュースは直感的に選ばない」けれども、でもチョコレートについてはそれをわれわれはやっているらしい。これは商品のありようの違い、モノ自体にまつわるさまざまなイメージや情報を商品価値として認識している度合いの高い商品についての購買の習い性みたいなものかもしれない。単にそれだけかも、という意味も含めてなのだけれども。

 ただ、ここでうっかり表出されている「テキストが多くなるとダサいと感じるのはなぜか」という問いは、先の「論理的/直感的」に「文字/ビジュアル」という待避の図式に紐付けられている文脈において、文字以外の「ビジュアル」表象の「直感的」な「理解」が、すでに文字情報に対して、それが文字であるというだけであらかじめシャットアウトしてしまうような視線と認識のありようについて、立ち止まって考えさせる足場になる。それは単に商品を選択する購買行動に際しての習い性というだけでなく、われわれ自身の現実認識のありようについて、すでに知らぬ間に根深く浸透している、そして未だうまく自覚もできていない変化について、本質的に考え、言語化しておかねばならない問いにつながってゆく。もちろん、相変わらずの承前、継続審議な大きなお題として。