ロスジェネ激怒の「2,000万円@65歳」


 金融庁の本意や真意がどんなものであったにせよ、「65歳までに2,000万円くらいは貯めておかないと危ない」という受取り方をした世間一般の、「老後」への危機感の内実こそが問いの焦点。もちろんそこに「年金」という公的保証制度についての不安や不信感などが複合していること、言うまでも無い。

 65歳というのが「定年」の一般的な年限になっている近年のこと、それがいわゆる会社勤め的な労働の「引退」の目安になってはいるらしい、一般的にも。で、年金支給年齢がどんどん先送りになってゆきそうなことに加えて、その支給額がこれまで積み上げてきた支払い額に比して減ってゆくらしいこと、いやさらにそれ以上にこちらがより本質的なのだろうと思うのが、それら支払い額がすでにリタイアした高齢者世代は言うに及ばず、現に今、職場で眼前にいる上司や幹部世代――具体的には50代後半から60代にかけての「定年」秒読み世代よりも「不利」になりそうだという、その世代的な「不公平」感だろう。

 「不公平」――これこそが昨今、本邦の世間一般その他おおぜいの「おキモチ」を静かに淡々と、しかし地下茎のような根深さを伴って律し始めているものらしい。

 しかし、考えてみれば不思議な話だ。社会は、いや「世間」はと言い換えていいだろう、世間は人ひとりの身に比べればいつも広大であり続けてきたし、どんな立場どんな稼業に従事していようとも、たかだかひとり//の等身大、身の丈の間尺の視線の限りでそれらは見通せ尽すものではない。それは何も近年そうなったというわけでもなく、はるか以前から、大げさに言えば人の世がこのように存在するようになってこのかたずっと「そんなもの」であったはずなのだ。

 「そんなもの」だから、それぞれがどのように公平か不公平か、いちいちそう気にして生きていたわけでもないだろう。逆に言えば、公平か不公平か、といったことが誰もにとってそんなに気になるようになってきたこと自体、それほどまでに誰もにとって社会は、世間は見通し尽くせるようなものになってきた、少なくともそう思う、感じるようになってきたということなのか。「高度情報化社会」だの「ハイパーメディア」だの、いずれそのような惹句や煽り文句の類をまぶした、それこそシャカイガク的なもの言いのルーティンなどからは、そのような全能感、ひとりひとりが「情報」の過剰によってあたかも社会を、この現実を知り尽くし見通し尽くせるようになったと感じるようになった、そんなこの時代の状況がそのような「不公平」感を抱かせるようになっているのだ、と量産型凡庸コメンテーター話法で片づけられるようなもの。そしてそれに見合ってこちら側も、ああ、何となくそんな感じ、と軽く納得したことにして流してゆくまでお約束になっている。

 だが、ことはそんなにあっさりわかりやすく流してしまえるものでもない。公平か不公平か、について誰もが敏感になっているらしいのは、社会や世間の全体像が見通しよくくっきり見えるようになってきたからというよりも、それら全体像のありようとは別に、まずこの自分、個々の個人の個体意識がまわりとの関係や属するしがらみの類とは切り離されてあるという感覚、それがカネとヒマを自分のものとした富める者たちだけでなく、〈それ以外〉にまでも実装されるようになったらしい。

 いつ頃から、みんなそういう具合に「老後」だの「余生」だの、これから先、死ぬまでにいくらカネが必要か、だのをマジメに気にするようになったんだろう。あるいは、気にしなければならないようなキモチにさせられていったんだろう。そんなこと気にしたり考えたり思い悩んだりしなくても、たいていのことは「そういうもの」で片づけてゆく、そうせざるを得なかった程度にみんな今よりは考えなしで不幸な時代に生きていたといういまどきありがちな解釈の大雑把さも含めて、その時点でそういうヘタな考え、すぐに答の出ないとりとめない問いには歯止めかけられるものだったらしいのに。