当事者性の氾濫・メモ

 この「当事者性の氾濫」は、「森羅万象を政治化すること」と表裏一体である。「当事者性の氾濫」下においては当事者であること以上に「当事者になること」が強調されているように思えるが、これは、自らの置かれた状況を特に政治的ではないと思っている人々に対して様々な仕方で呼び掛けている。


 「当事者たれ!」という声は、自らの置かれた状況の当事者となることで、その状況の政治性に気付けということを意味する。イデオロギーや公共政策の主体となることがなくとも、自らの日常の当事者へと生成変化することで、その些細な日常を政治的なものとして捉え直すことが出来る、ということである。


 こうして、非政治的と思われていた身辺の話が政治化するということは、個人的な経験におけるあらゆることが政治化されることと同義である。「個人的なことは政治的なこと」となる。両親や恋人との関係や職場での人間関係も、「当事者」という主体化の下そのままに政治的な事象として政治化される。


 しかし、個人的経験をそのまま政治化するにせよ、政治化する以上はその経験を政治的な言葉で彩らなければならない。そこで、「人権」「まなざし」「構造的暴力」「累積的抑圧経験」などその他諸々の術語が召喚される。「マンスプレイニング」なり「シーライオニング」なりといった新造語も召喚される。


 何故個人的経験を政治化する際にそれを何らかの意味で政治的な言葉にわざわざ翻訳する必要があるかと言えば、何か或いは誰かを明確に友とし敵とし、その経験を政治的な問題として共有せねばならないからである。「当事者性」ではない当事者が、忘れ去られていくことがあるのもこの局面においてである。


 本当の問題は、個人的経験に「当事者性」を付与することで政治化する際に使われる言葉は、それが公共的な言葉を意味しているようでありながら、飽く迄も当の個人的経験を意味内容とするものでしかない、ということである。少なくとも、両者の間には必ずズレが生じている筈である。


 しかし「当事者性」の政治では、そのズレ、すなわち或る言葉が個人的経験を説明する際の意味とその言葉が公共的に持っている意味のズレは寧ろ問題ではなくなる。寧ろ敢えて両者を区別しないことが、「当事者性」という概念、「当事者となれ」という呼びかけの本質なのである。


 こうして、或る言葉が個人的経験を説明する際の意味とその言葉が公共的に持っている意味のズレは寧ろ問題ではなくなる時、「当事者性」は氾濫する。誰もが個人的経験だけを、そのまま政治的なものとして生きる世界が到来する。或る問題の当事者か非当事者かの区別も、二つの意味と共に融解する。


 この「当事者性の氾濫」が捲き起すのは、実の所、個人化されたシュミット主義であり、現にそうなっている。


note.com/ganrim_/n/n892… 今思い返してみれば、この文章に書いたことは、そのままこの連投に書いたことと繋がっている。


note.com/ganrim_/n/n016… 昔書いた「方法論的女性蔑視」論とは、「女性」という「当事者性」を持ったフェミニスト達によって展開される「個人化されたシュミット主義」の圧迫に対する、「弱者男性」という「当事者性」を持った「個人化されたシュミット主義」的対抗策の提示であったとも言える。


 「方法論的女性蔑視」論は、ポリコレという個人化されたシュミット主義に対するアイロニー的叛逆であった。何故それがアイロニーなのかと言えば、全く同じ手法で相手の逆手を取っているからである。しかしその時は気付かなかったが、ここにもう一つのアイロニーが、言葉の意味自体のアイロニーがある。


 一つにはポリコレとして並べられる言葉の意味が、公共的な意味と個人的経験における意味との区別が限り無く分けられないものだというアイロニーであるが、それ以上に、当の個人的経験、「お気持ち」と呼ばれるものと言葉との関係それ自体の間にあるアイロニーである。


 このアイロニーを、最近はずっと考えている。そしてこのアイロニーは、公共的な場面や用法のみに言葉を返そうとすることによっては寧ろ無自覚に強化されるだけのものである。であるから、公共的な科学の言葉に全てを還元しようとする進化心理学によって解決する問題では全く無い。