「教育」という冠のワヤ

 ほんまに「教育」と名のつく、あるいは冠かぶった領域については、「立ち入り禁止」ないしは少なくとも「自己責任で」と明記すべきとおも、ここ四半世紀くらいの経緯については。

 いわゆる人文系の「教養」が、世間一般の「本読み」「読書人」の下支えがまだあった状況から、学術研究世間の人文社会系通俗ボリューム層を「教育」系界隈が担うようになっていた事態に、それら「教養」の歯止めがかからなくなっていった経緯がどこかで決定的にタガのはずれた暴走を許容していたかと。

 「教育●●学」とついた肩書きの胡散臭さは昔っから感じてはいたが、それって良し悪し別にして、単なる教育実践例の報告やおよそ創造的でも刺激的でもない書きものの垂れ流しみたいな論文や報告がデフォに見えたから、というのは正直あった。そういう人文社会系通俗ボリューム層のやりきれなさ。

 まあ、どんな領域でもそういう層は一定比率でいたわけだが、そういう物件のいなし方、取説まで含めて、上手く取り込みながら餌にしてゆく手練手管も実装させてゆくのが、「学会官僚」養成所としての旧帝以下国立大or有力私大(分野によって違うが)の大学院の研究室だったりした感。

 「当事者研究」なんて、それまでの人文系の「教養」ベースで考えたら、速攻あたおか丸出しな能書きを、東大以下本気で(おそらく)やり始めたあたりでもう、あ、これぜったいなんかヘン、と思うとった向きはある程度おったと思うんだが、な。