作品を鑑賞する時にオマージュ、元ネタ、共通点を拾い上げようとするのは、所謂オタクと呼ばれる人の習い性だけど、実は「そのセンサーのスイッチを意識的に切る」能力こそ養わねばならないのかも知れない。
— 葛西伸哉 ラノベ作家 (@kasai_sinya) 2023年3月21日
作品を鑑賞する時にオマージュ、元ネタ、共通点を拾い上げようとするのは、所謂オタクと呼ばれる人の習い性だけど、実は「そのセンサーのスイッチを意識的に切る」能力こそ養わねばならないのかも知れない。
例えば『シン・ウルトラマン』におけるゾーフィの表現には、少なくとも三段階の意図というか機能がある。
レベル1:「何も知らない人」にとっては、あの映画で出てきた通りの「地球を処理するためにゼットンというものを持ってきたウルトラマンの同族」
レベル2:「ゾフィーというウルトラマンの仲間がいるのは知っている人(恐らく大多数)」にとっては、1に加えて作中では一種の汚れ役、仇役を「お馴染みのゾフィー」と切り離し、混同させないための名前と姿。
レベル3:元ネタを知り尽くしている人は「昔の怪獣図鑑と、成田画稿のオマージュ」である事に気付く。
ところが「レベル3をやるスタッフも気付く俺たちもすげえ!」でヒートアップしてしまうと、1の見え方を認識できないし2の効果を見落とすという事はないか?
「ゼットンを操る宇宙人ゾーフィなんて、普通の客は気付かねえよ!」と喜んでいると、それは「気付かなくても別に問題がない」のを理解できず、マニアックなオマージュの是非という無意味な焦点にピントを合わせてしまう。
時に、「独立した作品としての完成度」よりも「ジャンルへの忠誠度やオマージュの量」を評価の基準にするような人もいる。
いやまあ、それはその人なりの価値観として尊重するけどさ。別に偉いモンじゃないよ。数多の見方のひとつだ。
— 葛西伸哉 ラノベ作家 (@kasai_sinya) 2023年3月21日