高校生にもなってアニメなんか見てる俺は異常なのではないか?という怖れが、我々の世代にはあったので、無邪気なように見えて、何処かしら屈折している、というのが最初期のオタク(という言葉はまだなかったが)であった。
— 三一十四四二三 (@31104423) 2019年4月6日
私の友達のTは、大学の時、ガンダムの設定資料集という高い本を買っていたが、
自身がアニメファンであることを決して認めようとせず、「あんなものはガキが見るものだ!わしゃアニメなど見ない!知らない!興味ない!」とむしろ反アニメ派の立場をとった。しかしつい気が緩むと、モビルスーツの詳細やアニメの台詞が口に出てしまう…そんな男だった。……と いうか、今でもそうだ。(今は彼も56歳だ)
先日も電話で
「俺ってアニメとか見てない人やから…」
と前置きしておいて、最新の通が見るようなアニメの話を楽しげに語り出したのだ。私が
「お前 相変わらず よう知っとるなぁ」
と言うと
「何が相変わらずや!俺はアニメの事は全然知らんのや!あんなもんは女子供の見るもんや!わしゃ知らん!馬鹿にするな!キ〜!」
と激怒するのである。
40年近く付き合っているので、この複雑怪奇な性格には慣れているが、それにしてもそろそろ
「わしは筋金入りのアニメファンなんや」
とカミングアウトしてもいいのに。誰も驚かないのに。
「誰がオカマなのよ!悔しィ〜キー!」と同じだ。
最近はまたずいぶんと様変わりしているように思うけれども、ある時期ある世代までのおたくというのは、「おとな」という約束ごとに対する意識が相当強かったように思う。そういうものさしから自分が決定的にズレていること、そしてそれは決して「まとも」でも「ふつう」でもないこと、についての自覚の強烈さ、となって宿っていた。
だから、この挿話の御仁も、56歳になった今でも未だに自分自身を「おたく」として認識しない、したくないという一線を強固に守っている、少なくともそう見える。それは、アニメやマンガや、その他何でもいいいわゆる「おたく」であることを証明するような趣味のジャンルの数々に耽溺することは、決して「おとな」の所業ではない、という何やら盤石の前提があるからこそ、なはずなのだ。