「30年前」という距離感

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 『トンデモ本の逆襲』(1996)で話題になっていたが吉田信啓という古代史研究家は(1936~2016)は自分も子供の頃から食べていたというのを根拠にトウモロコシがアメリカ大陸起源だというのを否定していた。昭和初期生まれの人は戦前の日本は連続性を維持していたというイメージを持つことがままあった。


 「江戸しぐさ」の芝三光師が、江戸ではトマトが滋養食だったとかバナナは皮をむいて包丁で切って箸で食べていたとかかちわり氷を売っていたとかショコラ入のパンがご馳走だったといっていたのは彼自身の子供時代と江戸が彼の中で地続きだったから。


 まあ、戦後、特に高度成長期の急激な社会の変化をリアルタイムで経験したからなんだろうけど、「30年前」の社会風俗と称して60~70年代くらいのイメージを語っている記事が話題になっているけど、漠然とした昔というイメージで時代錯誤なことを語ってしまうというのはありがち。それを思うと昭和末期から平成初期にかけて、バブル経済とその崩壊による急激な社会変化を経験した世代が昭和~平成初期の頃を地続きとして認識してしまう人がいるのも仕方ないかと。

 おっちゃんあたりになると「30年前」は生きてきた間尺のおよそ半分、それこそ「30年前」が「自分がまだ生まれる前の時代」で「他人事」にしてしまえるギリギリ最後の時期を生きていた頃、ってことになるんだが。

 それから先の「30年」(何年でもいいが)というのは、自分が生まれて生きてきた時代について、それ以前の時代とのつながり具合において「他人事」にならない、少なくともそうしてはいけない程度に「この世に生きてあることの責任みたいなもの」が宿ってゆく過程だったかもしれん。

*1:「むかし」というイメージとそこに込められている時間・歴史感覚の濃淡について。現在化された歴史、という懸案のお題関連として。