「学問」と「現在」≒〈いま・ここ〉の関係について

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 「○○学」というのは、基本的にもうあまり意味がないと思っています。いまの日本の、それも文科系の大学生であるあなたたちにとって、ということ以上に、いまの日本の文科系の学問全体にとっても、そうだろうとずっと考えています。

 なので、「○○学」をやる演習、ゼミ、という形はとりません。でも、敢えて言うならば、「民俗学」「考現学」であり、「歴史人類学」でもあるようなもの、でしょう。別の角度から言えば、「生活文化論」であり「日常生活史」であり「風俗学」であり「メディア史」であり、ごくざっくりくくってしまえば、まあ、「文化学」とでも言ったものだと思います。

 人間と、その人間のつくる社会、そしてその社会に必ず貼りあわされてつきまとう文化というやつを、できる限り現在の、〈いま・ここ〉から、身のまわりの個別具体の〈もの〉や〈こと〉から発して見通してゆくような、そんなものの見方や考え方をしてゆく、それがまず最大公約数の共通理解です。だから、歴史というのも、そういう共通理解の上に、〈いま・ここ〉から言わば逆向きに見通してゆく像として立ち現れる、そんなものです。

 で、「考古学」に対して、「考現学」です。この「考現学」のことを少し、話しておきたいと思います。

 「考古学」は、文字の資料など残されていない遠い「むかし」(=先史)を、主に発掘された「もの」から考えよう、という学問です。それに対して「考現学」は「現在」を、つまり〈いま・ここ〉を考えよう、という学問です。

 実はこれ、日本で生まれた学問です。しかも戦前、大正時代からある言葉です。ちょっと気取って、モデルノロジオ、なんて呼んでもいました。そういう意味では歴史も伝統もあるのですが、でも、学校の中の科目としては正式には認められてきませんでした。むしろ、学校の外側、世間の普通の人の中で興味を持った人たちの、言わば趣味、道楽として細々と、しぶとく続いてきた学問です。とは言え、大学に限っても学部や学科はもちろん、コースの名称としても「考現学」を掲げた学校は、細かく調べたわけではありせんが、どうやら他にはないようです。

 「現在」≒〈いま・ここ〉を扱う学問は、社会学民俗学文化人類学など、いろいろあります。経済学や法律学も広く言えばそうですし、いや、人間と社会、文化にまつわる学問領域、つまりいわゆる文科系の学問の多くはそのように「現在」≒〈いま・ここ〉を扱う学問だったりします。それぞれの領域によって見え方が違っていても、でも、「歴史」や「文化」というのも基本的には同じこと、違う角度や異なる道具で扱うから見え方が違っているだけで、引いたところで見ればどれも同じ「歴史」や「文化」のある側面、一部の局面だったりします。このように、大きく言えば人間と人間に関わるさまざまな事象を対象にする学問は、それぞれ互いに重なり合ったりしながら、さまざまな分野に別れて成果を出してきました。

 で、考現学はというと、それらのどの学問にも全部関係があるような、「現在」を扱う最も素朴な作法や身構え方によって独自性を持ってきた、言わば「方法」の学問です。ですから、それぞれ専門の分野を持った専門家たちの中で、そんな考現学の方法に興味を持った人がそれぞれの「方法」に取り入れてやっている、良くも悪くもそんな“ゆるい”学問でした。だから、学校の中の科目や大学の学部、学科といったきちんとした枠にうまく収めてもらえないままだったとも言えます。

 もともと普通の人が、ただ「好き」で始めた学問ですから、「おもしろがる」のが基本です。理論とかモデルとか、そんな抽象的で難しいことはひとまず二の次で、脇に置いておく。眼の前にある「もの」や「こと」、身のまわりの個別で具体的な〈いま・ここ〉にだけ焦点をあわせて、まず「おもしろいなあ」と思い、「なんだろうなあ」と疑問を持つ。そして、それをどんどんいろいろなやり方でしらべてゆく。そうやってわかったことを、おもしろがる仲間たち同士でやりとりして、どんどんその「おもしろい」をまわりに広げてゆく、そういう意味で、徹底的にアマチュアの、普通の人の学問です。

 でも、思えば、考古学だってもとはそんなアマチュアの「好き」や「おもしろい」から始まった学問でした。他にも、民俗学文化人類学といった学問だって、はじまりは概ねそんなもの。いや、人間や社会、文化に関する学問は、どれもみんな、最初から偉そうな「○○学」だったわけではありません。はじまりはみんな、ただの趣味や道楽。だから、そういう「おもしろい」「楽しい」「なんだろう、これ」という“はじまり”の気持ちをできるだけそのまま持ち続けて、その気持ちを仲間や、それ以外にも伝えて言わば「伝染」させてゆく。そうやって、その中のいくつかが後に「○○学」という「学問」に成長していったわけです。

 こういう「おもしろい」「楽しい」「なんだろう、これ」が今後、そういう「学問」になってゆくのかどうか、それはまだわかりません。でも、成長しなくたって別にいい。自分が「好き」で「おもしろい」ことをずっとしらべ、考え、仲間と一緒におもしろがり続けることで、世の中の見方や考え方が、学校やメディアが教えてくれる当たり前とはちょっと違ったものになってゆく、そうやってひとりひとりが変わって自由になってゆけば、結果として世の中も変わってゆく、かも知れない。自分や自分の仲間が生きている間にはそんなに変わらなくても、自分たちの「好き」や「おもしろい」が受け継がれてゆけば、そのうち気がついたら「ああ、変わったなあ」とわかる時も、きっと来る。そんなわかり方、世界とのつきあい方こそが、本当の意味で役に立つ学問なのだろう、と思います。

*1:もともと10年前、弊社若い衆の演習科目のエントリー向けレジュメとして書いたものだったはず。